一次と二次と

 動物化ポストモダンな現在*1、なにかしらのデータベースを引用しない、一次作品の場合、キャラクターやら世界観のライブラリを自作しなくちゃいけないので、かなり労を要すると思われる。そのへん、工程を軽減するためか、単なる無自覚なのか、広く流布しているライブラリを流用すると、学校の怪談で事件があって、結局犯人は担任だったり、ちょいオタな少年が実は魔法使いの血筋だったり、吸血鬼が吸血鬼だったりという話になるのだろう。絵の場合、画面に描き込むことでセカイやキャラクターのプロパティーを埋め込めるので、文章に比べて読者は低コストで作品を享受することができるのだが、その分作者は技術と工程を必要とすることはいうまでもない。
 読者にとっても、消費するコストというかリソースは変わってくる。絵であれば、殆ど消費するエネルギー無しに作品を理解できる*2が、文章であれば、読む手間がかかる。一次創作であれば、単なる想像力を超えて、文章から作者の世界観を受け取らなければならない。さらに、二次創作と違い、その世界観は、読者の気に入らない世界観かもしれない。しかも。頑張って脳内メモリ空間に構築された世界観は、物語の完結により、正常終了し幸せの内にプロセス終了しメモリ解放されるとは限らないというリスクもあるのだ*3
 二次小説からカテゴリー小説、そして「小説」に至るにつれて、作品に必要な要件は増えていくと思われる。それにつれて、作品は長大となり、読むためのコストは増え、リスクも増すだろう。そんなわけで、自分なりの最適化の結果、カテゴリー小説ばっかり読んでいる今日この頃。

*1:この書き出しも古くなってきたようだ

*2:その分、製作者がリソースを消費しているのだが

*3:結末を見せない方が余韻を残す、という意見には、諸手を上げて賛成はしない。余韻を残す終わり、と、単に終わっていない終わり、とは違うものだと思っている。