京大脳・アメフト脳・ゲーム脳・フィギュア萌え族

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逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
それが大衆社会にかけられた「呪い」である。
逮捕された京大生たちは「いずれも容疑を否認している」そうである。
彼らには犯意がなかったらしい。
その場にいた三人全員でやった以上、「みんな」がやったことだから、咎められるはずはないという大衆社会固有の推論に基づいての判断だったのであろう。
彼らは学生たちの狭い社会の外側に「刑法」という上位規定によって規制されている社会が拡がっていることを(知識としては知っていても)、実感したことがなかったのである。

 「みんな」が引き起こす抑圧について。無知なほど、自分の合理性や確実性を強く感じることができる、というのは鋭い指摘。