"先に経済学ありきではない"

http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060122/p4

確かに、現実にはそうなっている。僕は、そうした現実そのもの、また、それを許す発想こそを批判しているのである。すなわち、「すべての人の生の保障をするのに、先に経済を問題にすることは許されない」と言っているのだ。そして、たとえ財源が不足していようとも、それは端的に言って財政政策の問題なのであって、それを福祉削減の口実にすることなど許されない。そう言っている。

 x0000000000氏に、私の発想をいくら批判されても仕方がないと思うが、「経済学」や「政治学」や「哲学」はともかく、経済も政治もパワー、つまり経済の裏づけなしには実効力が無い、と私は思っている。誤解があるといけないのだが、別に国民の同意があれば、福祉に財源を投入しても構わないと思っている。氏のように、現場で起こっている事例をBlogで公開することで、福祉に関心を持つ有権者も増えるだろう。ただ、高福祉を実現する経済モデルを提案できなければ、多数の有権者の支持を得ることは難しいんじゃないかな。

人の生き死にに関しては、「誰かの承認があるから、生きていてよい」とはならない。承認のあるなしにかかわらず、無条件に「生きていてよい」のだと思う。確かに、その上で誰かから能力とか業績を認められれば、それはそれでうれしくなるかもしれない。だが、それは「人の存在」にかかわる部分では言えない。無条件にそれは肯定されるべきことなのであって、原理的に考えてそこに「国民の合意」など付け入る隙はないはずなのである。

 これもおんなじ話。権利は、アプリオリに保障されるといいな、と思うけど、それを担保するには現実的なパワー、つまり財源が必要だと思う。他人に暴力を受けない権利、すら担保されない国は一杯あるし、それは警察・軍の予算不足だ。疾病の際に適当な医療を受ける権利が担保されない国も少なからずあるし、それは福祉の予算不足だ。生きる権利が、DNAの塩基配列に書いてあるのか、ニュートン運動方程式から導き出せるのか、そのへんはよくわからないが、それはきっと原理的に正しいのだろう。ただ、残念なことに、権利を担保するには予算が必要だ。経済学者じゃない。


 要するに、福祉とは経済の一部であり、経済的な側面を「経済学」と称して外部に排除することは、得策では無いんじゃないかと。
 個人的には、障害者も、高齢者も、野宿者も、「排除された外部の、内部との闘争」という構図に持ち込むのではなく、内部に取り込む方向になったらいいな、と思っている。「介助者の不足」問題なんかも、単に障害者や高齢者の福祉問題ではなく、都市で働く彼らの家族の雇用問題であり、コストを切り詰めた雇用が、近親者の介護を不可能にしている(こともある)。労働コストの削減によって得られた利益が六本木のあのへんに集まって、それまで家族や親族によって担われてきた介護が困難となり、その皺寄せが福祉予算の増大につながってくる(場合もたまにある)。これは、六本木企業の利益移転どころではない、コストの移転だ(というのは大げさかも)。と、こんな感じで、仲良く合同していったらいいのにね、と思っている。

問題なのは、その予算がなくなれば消滅してしまうようなものなど、権利でもなんでもない、ということだ。この文言は、交渉に行って役所の人間から発せられる言葉と同じだ。「予算がないから制度ができない」、いつも交渉で役人が言う言葉だ。ぶっちゃけて言えば、「お金かかる人は生きるに値しないよ」と言っているのと同じなのである。そこのところを根本から問い直す必要があるだろう。

 前段、「現在の福祉は、一部の者の利益のために不当な搾取を受けている。不当な搾取と、搾取のためのシステムを改善すれば、現在の状況は改善できる」と解釈した。新たなモデルについて理解することは出来なかったが、Blogなどで啓蒙を図り、有権者の支持を得ることができれば立法へ向かうことができるのではないかと思う。それは、権利という言葉の意味を再定義したり、役人の発言の解釈を考えたりするより、建設的なことだと思うのだが。


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060123

そして、生死に関してさえ、遠くより近くを優先して構わないとする共同体論者はどこか過っているとしか言いようがない。共同体論者とは、遠くで何人死のうが痛痒を感じずに、先進資本主義国の良い生活を正当化する連中なのである。

 まさに、私はこういう連中なのだ。

その上で述べよう。奪われている者たちの多くが、今、現に暴力を行使していないのは、私たちにとっては幸運なことである。

彼らは、生きるための暴力を禁ずる何もかもが破棄されているこの世界で、ただ単にその暴力を行使しないだけであり、そのことによって、正義が生成する可能性を辛うじて保ってくれているのである。私たちは、彼らが、少なくとも私たちほどには野蛮ではなかったことを、幸運だと思うべきである。

 奪われているものが暴力を行使しないのは、そのために先進国が武装しているからじゃないのかな。

<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが、算術的道徳によって一部の人間だけを優先するような状況を根こそぎにしてくれる。

引用の中で、救急隊員のたとえが出てきたが、自分にはそれより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8
トリアージの概念の方がしっくりくる。大災害の際にはこういう作業を行うらしいのだが、実際的ではないかと思う。すくなくとも私は、救急隊を前に、デカルトの哲学を説く勇気は無い。大災害に直面した為政者の前で哲学を説く、小泉義之氏の姿は見てみたい気はするが。