俺の1+1=3だ。俺に3万円寄越せ。あいつの1+1=0だ。あいつは0円でいいぞ。

例えば、弁護士会は会員である弁護士に対して被害者遺族(除く、医療事故被害者遺族)に不快感を与える弁護活動を行うことを禁止し、既に弁護活動に伴い被害者遺族に不快感を与えた弁護士に対して懲戒処分を行うこととした場合に、初めてこれらの「素人の意見が専門家に受け入れられた」ということになります。もはや、行き着くところは、検察も弁護人も裁判官も「世論」とやらに迎合してみんなで被告人を断罪する「人民裁判」です。

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2007/09/post_ebe1.html

Hideo Ogura氏は、たぶん、1+1=2であるべきだ、と、何度も何度も力説し、これからも力説するに違いない。


 法治国家は、法律上の係争を、公開された裁判の場で、法律に基づいて、判定するシステムだ。いってみれば、ある種の人間は、「俺の好きなチームだから、ストライク3でもアウトにするな」とか、「一回で3得点、二回で1得点。3+1だけど、計5点にしろ」と言ってるようなものか。試合で勝ったチームが、勝利チームというのがスポーツで、裁判で認められた罪状が、その被告の罪状。「ここで、逆転すれば、あのピッチャーは記録になるのに」と言われても、足し算の結果を変える審判はいないだろう。それなら、もっと、打ってくれよ。
 自分の好きなチームが、勝ってくれると嬉しいけれど、そんな社会だと、あなたのチームが出場すると、2ストライクでアウトになるかもしれないよ、と警告する。みんなでルールを変えるのはそれはそれで結構、それは立法の仕事。1+1=2、アウトかセーフか、疑問なら、それを協議するのが審判の仕事。贔屓チームだから勝たせろ、と、空き缶を投げられても困る。


 そんな風に感じていると感じている。