嫌嫌権

http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20060611/p1

嫌嫌権ということで考えているのは、ひょっとして「嫌煙権」のような考え方っていうのは、というか「嫌煙権」という言葉が喚起する「権利意識」は、内心の自由であるという見せかけをとった、異なる種類の内心の監視・管理のようなものなんじゃないかということ。

煙草の煙が苦手な人は、苦手である自由が「嫌煙権」で保障されているから苦手なのではなくて、端的に苦手なんでしょう。その端的な「苦手さ」が、「嫌煙権」によって、異なる水準にすりかえられ、監視・管理の対象にまとめあげられる。これが不快なのは、「端的な苦手さ」をもつ権利を踏みにじる効果を産むから。

しかし――ぼくが煙草の煙が苦手だってわけじゃないからいまいち現実感に乏しいのだけれど――この自分の端的な苦手さを、嫌煙権のような一般的なものに回収されるのはたまらない。別様可能性を探るとか、そういうんじゃないけど、なぜ、たんに自分は苦手だ、という事柄に対処するのに、用意された一つの方法しか用いてはならないのだろうか。

 タバコの煙で咳き込む子供、気管の過敏性のため、喫煙所から流出する煙をすわずに通るルートを要求した老人、の姿を思い出した。