"ライトノベルと萌えのカテゴリ的な考察"

http://malloc.exblog.jp/3182035

それと同じように、ライトノベルでの学園モノにおいて、将来のことなど何一つ考えてなさそうなキャラクター達が、このまま行ったらどうなるのか、なんてことは、書いている側は敢えて気にしないし、楽しく読んでる側は気にしたくもない。いつの時代にも流行る、現代の少年少女らが異世界で旅するファンタジーも、本当に世界と世界が繋がっていたらいろんなことが大変になっているはずなわけで、やっぱりその辺も、作者はファンブックになった時に細かい所は考えるし、読む側もそれを考えるのは読み終わった後である。大抵は。多分。

 ここで、「成長」とか「ジュブナイル」という単語を使うと、いろいろアレなのでソレだし、無い話をするとまたあれこれなので、ある話をしよう。
 マリみて、では、ある種パラダイスであった学園を卒業した人々の姿も、それなりに描かれている。主人公らからすれば神さまのような、聖さま達も、きちんと普通の大学生として社会に回収されている。物語で付加された特権性を捨てて、社会に回収されるか、特権性を持ったまま社会に参画するか、それとも社会に背を向けるか。まあ、リリアンを卒業して、リリアンの教師になる、なんていう無限の円環パターンもあるけど。
 主人公からみて神様のような存在が、足を洗って社会に着地する、というのは暴走族マンガで結構あるような気がしてきた。