議論の勝敗

http://deztec.jp/design/05/11/04_discussion.html
いや、要するに妥協案を成立させるより、非妥協のまま議論を終了させた方が利益になったり、相手の強行採決を黙認しても、非妥協を貫いたほうが利益になったりするのだもの。

「痴漢(レイプもそうだが)されるにはされるだけの落ち度があるはずだ」という意識が問題だと思っている。それを「従うべき常識」と言いきって話を終わらせてしまうことにはものすごい危機感を感じる。

いじめもストーカーも満員電車での痴漢被害も運・不運にすぎない。どんなに気をつけていようとも、運が悪ければ被害者になってしまうだけのことだ。

私は今でも、この主張には首肯しない。

犯罪者が全部悪いには決まっているのだから、家に鍵をかけていなくたって、間抜けで騙されやすくたって、本来なら問題になんかならないはずです。でも、やっぱりそうしたことを放置すると、警察がどんどん犯人を捕まえてもなかなか犯罪が減らないわけです。仕方なく被害者にならないですむように気をつけましょうという話も必要になります。そして、無用心な被害者が責められることにつながっていく。対策不十分でも同情されてしまう地震災害について、ちゃんと対策している人がいかに少ないか。対策不十分でひどい震災にあった場合には援助しませんという空気があれば、みんなもっと真剣に対策しますよ。被害者に優しい社会は、必然的に被害者の防犯意識を低下させます。

 前半の、どんなに、とか、運、とか、そういう総称命題は大嫌いだ。どんなに気をつけていても事故は起こる、とか、どんなに鍵を掛けていても泥棒は入る、とか、そういう主張。リスクはあるかないか、ではなくて、高いリスクと低いリスクがある。そういうことをいうと袋叩きになるのだろう。


ただ法律が許すからといって社会的にやってよいかというと、これは別問題になります。「いい・悪い」という問題はおよそ4つの段階から構成されているからです。1)技術的に「できる・できない」、2)法的に「合法か・不法か」、3)倫理的に「やるべきか・べきでないか」、4)経済的に「やって得か・得でないか」の4つですね。

 で、その話をするまえに、技術と法と倫理と経済とのお話は区分しておくべきだろう。いじめも痴漢もストーカーも、彼らが倫理的に法律的に悪く、また、経済的に賠償責任が発生することは両者とも同意できるはずだ。ただ、技術上の防止措置を取らないことは、リスクを高めることとなる。
 青信号で横断歩道を渡るときでも、左右は確認すべきだ、というのが私の意見。酔っ払いの信号無視の車が突っ込んでくるかもしれない。横断者は倫理的法律的に非はないかもしれないが、交通事故は不愉快なものだ。勿論、どんなに左右を良く見ていても、横断歩道に大型ダンプが突っ込んでくれば避けられないけれど、そういう話をしても始まらないとは思う。