なぜころ問答リターンズ

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50539225.html

日本語は主語が省ける故か、一般論に還元すべきでない問題が一般論化しやすいように感じる。

平たく言うと、「あなたの問題」が「みんなの問題」になりやすいということだ。しかし、還元せず「そのまま」扱うべき問題というのは確かにあり、そしてこの問題はその最もたるものの一つだ。

本題に戻る。それで、中絶の問題に関して、中絶される者とする者が直接当事者であることは言うまでもないことだが、それであればそのどちらでもない我々は「赤の他人」かというと、実はそうでもない。クリニックから法にいたるまで、当事者の決断に至る「環境」を決めているのは我々だからだ。「我々」がそう望めば、中絶を今よりずっと行いにくくすることも出来てしまうし、その逆も可能なのだから。

http://oddb.main.jp/addb/index.php?Diary%2F2006-02-15

倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、
「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。
説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、
という類の回答はご遠慮ください。

まずもってこの質問をする相手先が既に間違っている。
この質問の中で、「いけない」と言っているのは誰なんですか?

倫理が「人を殺してはいけない」と言っているのであれば「倫理」に聞け。
宗教が「人を殺してはいけない」と言っているのであれば「宗教」に聞け。
法律が「人を殺してはいけない」と言っているのであれば「法律」に聞け。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060224/1140780293

というか、リアルな生活空間では、そもそも正当不当の観念自体が、権力闘争「そのもの」なところがあり、権力闘争から独立した正当不当という観念で日常生活的行動を価値判断するのは、どこか象牙の塔的な匂いもする。しかし、個別的な権力闘争や利害闘争から独立した正当不当の観念によってのみ、社会構造を形成し、組み立てていくことができるのであって、そこを完全に否定してしまうことは、リアルな生活者といえども、心のそこから望んでいるわけではない。

 今回は、釣堀というより山火事かなぁ。焼畑農業というか。