自由という服従

http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20051028/p1

自分(プレイヤー)の存在意義を無条件で全肯定してもらうための装置がギャルゲーであるとして、どのギャルゲーをプレイするかはプレイヤーの自由、気に入ったギャルゲーをインストールして起動してマウス動かしたりエンターキー押したりして、操作するという形でヒロインたちと恋愛と目と耳に届く全てのパッケージを全く支配しているのは僕らプレイヤー自身に他ならないけれども。僕らがギャルゲーに支配されているというのはいまさら指摘する必要もないくらい歴然とした事実で。

自由という服従

ギャルゲーの存在価値がプレイヤーの存在意義を無条件で全肯定することである限り、ギャルゲーはプレイヤーを否定しないし、プレイヤーの人格は傷つかないからギャルゲーの支配を緩めない。そしてその関係に無自覚であろうとなかろうと、僕らは喜んで従属されていくんでしょうね。自由だからこそ、開放されているからこそ、むしろ僕らはそうなのだと思います。

ああ、もしかして、マルチヒロイン型ギャルコミは、自分の好きなキャラを選ぶという点で、主体性(のような何か)を確保できる、と解釈可能なのか。