「そもそも」対「そんなこといわれても」

どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。君は、自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。君が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準なんだ。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2

大学でもたぶん卒論書く直前までは、勉強ってのは基本的に自分で考えるんじゃなくて答えを出すことなわけで、自分でものを考えることなんてやったことない。テストで悪い点数をとることはあったけど、答えを出すまでやり直しになったことがある訳じゃなくて、あー、今回は成績悪かったね。次は正しい答えを出せるようにがんばる、で終了なんですよ。レポートも同じ。少なくとも私はそうだった。だからこんなこと言われても困る。

http://anond.hatelabo.jp/20090223034908


 っていうか、喧嘩にナンパ、愚痴でも零せば、じゃなくて、バイトにサークル、就活に卒業旅行を大学に求める学生と(授業は出ずに、全部優なら嬉しい)、単位に一定の要件を求める人の温度差というか、スキルの習得には一定のプラクティスが必要である(そして、一定のプラクティスの実践がスキルの獲得を保証しない)とする教官側と、「金払っているんだから、バイトにサークル、就活で忙しいから、授業に出なくても社会で活躍するスキルを身につけさせろ」「ネトゲーとBlogとTwitterより面白い授業をしたら出席してやる。俺が出席しないのは、面白い授業をしない教官が悪い。楽曲を買わないのは、俺に買わせるほど感動的な曲を出さないアーティストが悪い」という学生側との温度差だよな。


俺は表現っていうのは絶叫だと思っています。この世界にいるだれとも共有されなかった魂の部分があげている悲鳴、それを表現と呼ぶのだと思います。毎度似たようなこと書いてますけど。背骨がないと表現者であることは「厳しい」ですが、しかし、不可能ではない。つーか芥川とか太宰とか、大正から昭和初期の文豪たちなんざ「俺たち背骨なくてつらいんですけど」っていうのがメインテーマだと思うんだけど。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090223/1235363869

絶叫の話。そもそも論を言えば、「○○という問題に対する回答は、△△なんだ!」という絶叫がある人が大学を受験するはずなんだけど、そんなこといわれても。という話なんじゃ。あと、表現、それも「本当の」表現の話と、卒業資格の話と、いくつかの水準の話が錯綜している感あり。「本当の表現」とか、社会が表現に要求するもの、と、大学生が身の丈でもって供しうるプロダクト水準の乖離。