表現の自由について

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070924#p1
 んー、表現の自由は守るべきだと思うけど、やっぱり、どこか、線引きというのはあると思う。
 改造オートバイを乗り回し、爆音を撒き散らすことは、制限されているし、同様に、悪臭も、「引越し」と連呼するのもそう。暴走も、彼にとっては表現かもしれないけれど、それは、近隣住民の不快感を引き起こすということで制限されている。
 ポルノ(映画、写真)を考えた場合、現在の日本での制限が妥当だとは思わないけど、だからといって、銀座の街頭に、結合写真をデカデカと掲示するのはなんだかな、と思う。昔のベネトンならやったかも。コンテンツの制作、所持は(例外を除き)自由であるべきだと思うが、その公開方法に、一定の制限が加えられること自体は合理的だと思う。もちろん、この論法は、「俺が嫌いだから駄目」と発展しやすいので注意が必要だけど。


 チャタレイ裁判、四畳半裁判のように、現代からみれば奇妙な裁判を通じて、表現の枠は広げられてきた。ただ、広げた張本人は、多大な苦労をしてきたわけで、その苦労をコンテンツ制作側、放映側が負うのは大変かも、と思う。

ちょっと追記。

 元の、つまり、スクールデイズひぐらしの放送自粛の話題は、表現の自由というよりは、それもあるけど、差別と自主規制、という大変寂しい話だと思っている。
 人間の認知にはトラブルが起こりやすく、同じような事故、自動車が歩行者を跳ねた事故でも、○○人が日本人を跳ねた場合、○○人だからだ。○○人は危険だ。○○人を排除しろ。と、容易に転化する。では、○○人が跳ねられると、○○人だからだ。○○人はボーっとしている。ドライバーは被害者だ。○○人を排除しろ。となる。同様に、加害者も被害者も日本人だと、○○車に欠陥があったのでは?となるわけだ。日本人と○○人の、犯罪発生率が同じ*1なら、危険性は同じかもしれないが、認知としては、一人でも犯罪を起こすと、それは人種への偏見となる。
 こんなふうに、スクールデイズひぐらしの危険性は、他の同様なコンテンツや犯罪報道に比べて高いわけではないと思うが、異物として排斥されやすく、そこが、国民、地球人類共通のものとして強制的に扱われる、High-artやFine-artと差がつく点かなと。

返事

 残念。

追加

 これで、貸し借り無しと自分的には思うことにする。
 私は、差別には反対です。差別を行い、被差別クラスタをつくることは、他のクラスタにとって有益ですが、差別への指向は、次々に被差別クラスタをつくり、社会が分極し、国家を弱体化させる、と思うからです*2。犯罪者を、その出自などで差別することは、多くの人にとって、精神安定上有用ですが、それは疫学上の合理性が無いことがおおく、被差別クラスタの抑圧と、クラスタ間の闘争を産みます。と、こういう意味で差別には反対なのですが、その背後にある人間の認知システムは、それは間違っている、と否定しても仕方がないかな、とも思っています。世の中に、「芸術」と「非芸術」がある、という認知が、もっと広がり、表現のなかに、fine-artからpop-artなど、を「暫定的に、区別できる」という認知になるまで。



 

*1:所得でマッチさせるべきか?

*2:特権階級も、同様