往々にして問題となるのは、「左翼」に取り込まれる「弱者」とそうでない「弱者」の決定的な違いは、前者が「自己の救済」と同時に「他者の救済」を積極的に容認しているのに対し、後者は「自己だけの救済」が究極の目標で、しばしば「他者への苦役」を「自己の救済」の必要条件と考えがちだという点である。要するに「左翼」の目標と「弱者」の目標が全く異なる場合、当然「弱者」は「左翼」を支持しないのである。すでに日本では1930年代に同じことを経験済みである。
http://d.hatena.ne.jp/mahounofuefuki/20080806/1218011239
このへん、グループ分けの問題かなぁ。
近代以降、資本家階級や支配層が、進んで権益を手放し、労働分配率を高めたか、というと、そういうわけではなく、労働者や民衆の側に立ち*1、労働者の権利を明文化し、団体交渉を行った結果、それなりにマトモな社会になったと考えている。資本家(や、彼らの側に立つ政治家)が、自主的に権益を委譲したようには思えない*2。
引用内の言葉を使えば、「弱者」の側に立ち、普遍を求める人たちの行動で、社会は「弱者」が過ごしやすいように変わって来たけれど、最近は社会が相対的になり、「弱者」が文鮮明、じゃなくて不鮮明になってきたので、「左翼」というラベルも不鮮明になってきた。
というわけで、表題にもどると、悪意をもった「左翼」という定義を用いて、勝てない理由を問うならば、それはトートロジーだよな、と思った。