サブシステムな文句、メタシステムな対案

何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2

 通例、問題というのは、集団内の「配分」、それは金銭であり、権力であり、ストレスであり、交流であったりする、だから。

その意味で、たとえば次のように述べられるならば、それはゴマカシなのである。──「それは確かに問題ですね。変えなければならないですね。でも、他にどうすればいいんですか。それが嫌なら、「あなたが」対案を出してください」。「あなたが」は明示的に言われないこともあるが、明らかにこのような意味で言われる。こんな風にして「対案を出せ」論法を用いる人は、共に問いを背負うつもりなどなく、意識していようといまいと、問いを封じるためにのみ、この論法を用いているのである。

 NIMBY、ゴミ処理場は必要だけど、家の近くは嫌だ、という論法と対照的。

(一部の?すべての?)保守主義者がただの守旧派にどんどん堕落していくのは、このようなゴマカシ(自己欺瞞)を用いて問いから逃げていくからである*2。

動いているシステムは、部分的に最適化されていることが多い。担当者的には、「枠を変えるのは、上の仕事だ」となるだろう*1。もちろん、社会環境は常に変わるため、こういう結果になるのだけど。

 

 


 

*1:法治国家という建前では、特に