http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/35511.html
「それは何の役に立つんですか?」という問いをよく学生から差し向けられる。「文学作品を読むことにどんな意味があるんですか?」「哲学を勉強すると、どんないいことがあるんですか?」。この種の問いを向けられるたびに私は少し憂鬱(ゆううつ)になる。
いま、小学校低学年の段階で学びを拒否したために、漢字が書けない、四則計算ができない、アルファベットが読めないという子どもたちが続々と誕生している。「子どもにもわかるようなつまらない目的のために努力する気になれない」という彼らの言い分はなるほど「合理的」である。「合理的」判断の積み重ねが人を非合理な帰結に導くこともあることを子どもは知らないだけである。
翻訳すると、
「ボクはパパやママからお小遣い貰って楽しく生きている。貴方が指示した作業を行うことにより、その苦痛*1に見合う報酬*2が得られることをボクに納得させてくれますか?*3」
という問いかけだもの。憂鬱にもなるさ。
もっとも、大学もそれを承知で学生を集めていて、子守を教授に任せている筈。