ライトノベルと自動車会社

 けれども、小説は「技術のみで書けるものではない」んですよ。

 むしろ「技術」なんてものは持っていて当たり前。身に付いていて当たり前のことであって、肝心なのは「それ(技術)よりも遙かに『先』にあるべき物事」を教えなければいけないのに、教えない。学ぼうともしない。

 例えるなら「自動車製造会社は、自動車の作り方だけ知っていればいいのか?」というと、答えは“否”でしょう?

 何故そんなことを「ライトノベル」に当てはめて考えることができないのか? 理解できません。--http://d.hatena.ne.jp/r-motomura/

 ちょっと喩えが分かりづらかったので、勝手に解説してみる。
 小説の、狭い意味での技術を「技術」、自動車の作り方、を「製造技術」「販売技術」、としておきます*1
 現代の自動車会社に必要なのは、去年作られた自動車を今日も作る技術、だけじゃなくて、あたらしいコンセプトを創り、それを実現する技術です。どうつくるか、だけじゃなくて、何を作るか。十年前に流行ったクルマを今日も作り、売れ行き低下は、ディーラーへの報奨金や宣伝でカバーしようとする、大型車の国がどうなっているか(以下略)。車体やエンジンの改良を怠り、ボディーの目先を変えるだけで自動車を売ろうとした会社は(以下略)。
 でもねぇ、自動車会社の人だって、それは100も1000も承知で、ただ、新しいエンジンつくるのに何百億かかるとか、小型車で利益を出せる体制作りに何百億だか何千億だかかかるとか、で、懐かしのV8,6lみたいなピックアップが古くからの需要で売れたり、新車にカッコいいボディーつけて気の利いた宣伝で売れるとなれば、ねぇ。そういう車の影に、良い車は隠れちゃったりするし。

*1:そうしないと、ラノベにパラダイスをもたらす技術、みたいなメタ論になっていまう