フロントガラスにペンキを塗って、アクセルを踏もう。

 だったら、蟻を潰して愉悦に浸るような歪んだ子どもは、実は歪んでいないのかもしれない。それが当たり前なのかもしれない。蛙の肛門に爆竹を突っ込む子どもだって、猫に毒の入った餌を食わせる子どもだって、通りすがりの人に向けてエアガンを発射する子どもだって、母親を包丁で刺し殺す子どもだって、歪んでいないのかもしれない。正常なのかもしれない。--http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20060605/1149443738

 えーと、文化的に排除の対象となる行為は、
・共感すべき対象に共感しないこと(共感すべきでない対象に共感すること)
・共感を切断すること。「共感した」対象への殺害、暴力など。
(・負の共感、憎しみを抱く場合にはこれを反転しよう)

 
 こんな感じです。
 だから、戦略爆撃の倫理性が話題になりづらい*1一方で、100人切りとか、ソンミみたいな虐殺が話題になりやすい、と。牛を食べながら鯨を助けるとか、アフリカで人が死ぬことを放置しながらも猫を助けるために多額の寄付を払う、みたいなのもそんな感じ。
 おそらく、このへんは、人間の進化心理学的機能と関係があるのかな、と思ってみたり。善悪という道徳は、もっと後の話になるだろう。


 で、時々見かけるのが
・なぜ、全ての対象に共感できないのか
・なぜ、共感していない対象に「残酷」になれるのか
 という命題。
 それは、新石器時代から、そういう設定だから、という答えになるかな。
 あと、共感するしない、は心理的・生理学的だけど、共感すべきかどうか、は社会学的だし。


 と、こういう話はフラグが立ったり立たなかったり、という文脈でやりたいものです。

追記:
 ちょっと補足。後ろのほうの文章は、時折見かける、普通っぽいのに、自分は残酷である、人間でない、と喧伝する人向けの文章で、
 「知らない土地で、知らない顔の、知らない名前の人が死んでいる。そのことに、私たちは加担しているかもしれない。でも、人間はそういう風にできているから、感情が動かないことを気にすることは無いと思うよ」という意味です。で、私は、知らない人間は死ぬべきだと言っているわけではなくて、「そういう人たちを助けるために、公的回路を通じて世界を動かすべきだ」という考え。例えば、単身戦時体制の国家へ出掛けて、復路に何千万円も費用を掛けるなら、そのお金でその国の人に雇用を与えた方がいいんじゃないかな、という感じ。もちろん、「無制限の生の肯定を!」と叫ぶ人は、明日にでもアフリカの真ん中あたりで生の肯定をしてあげると喜ばれるんじゃないかな。


さらに追記:
 要は、正常とか異常というのは、誰かが持つ固有の性質に、なんか物差しを当てて、長いとか短いとか言っているもの。ミリだフィートだインチだ寸だと、違う単位を言い合っても仕方ないような気がしたのでこういう文章を書いてみたけど、まあ、雨の日に、俺は日本の将来や自殺者の増加より、傘がないことが大事なんだと言ってみるのもいいかもしれない。そうしたら、うん確かに、ジャスコでウオルマート化だもんね。日本も。と返事がくるかも。小売の世界。お粗末でした。



 

*1:実行者を対象として、のものは