"プログラミングとは経営判断の集積である"

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060118
最高に面白い。

そして、プログラマーが、ある使い回しモジュールを時間をかけて汎用化するとき、今後もそのモジュールが使われつづけ、役にたちつづけることをイメージしている。しかしながら、それは、会社が今後どのような人材を雇い(少数精鋭ならハイスキルの人が使いやすいように、サラリーマンエンジニアを組織化するつもりなら、そういう人にも理解されやすいように)、どのような組織体制で開発し(内部だけで開発するか、外注もつかうのか)、どのような種類のアプリやサービスを開発し(トラブったときの対処をどのようにフレームワーク化するか)、どのような顧客に提供し(生産性重視か、信頼性重視か)、どのようなモノをウリにするか(繊細なユーザインタフェース重視か、機能重視か)によって、その使い回しモジュールが、どれだけ使い回されるのかが決まってくる。

 プログラムというのは、高度な経営判断という話。だから、外注すると経営判断を外注先に任せることになる、と。

なぜ、ハイブリッド人材には3σが多いのか? それは、プログラミングとは、高度な知的作業であり、常人の場合、そればかりを何年も専門的にやってはじめて、ようやく一人前のソフトウェアエンジニアになれるような高度な専門職であり、かつ、経営やマーケティングも、まったく同様に、そればかりを何年もやって究めないと一人前になれないような高度な専門職だからだとぼくは理解している。ということは、ソフトウェアエンジニアリング、経営、マーケティングを一人の人間が兼ね備えようとすれば、3σでないかぎり、どうしても二兎を追う者になって、どれも中途半端な役立たずの人材になってしまうのだ。これに似たようなケースとして、海外で育った日本人の子供は、一部がバイリンガルになって英語と日本語の両方がペラペラになるが、一方で、英語も日本語も中途半端な、「セミリンガル」と呼ばれるコミュニケーション障害を抱えた悲惨な子供もたくさん出てきている問題が、言語学者の間で昔から指摘されている。

 人材論。
 世の中には、1σ君と2σ君と3σ君がいて、1σ君が仕事に0.5σ、オタ趣味に0.5σ消費すると、他に回すリソースが無いという解釈をしてみたり。


追記:

よく、ド田舎の平凡な村の平均所得が異常に高いことがあるが、それは、その村の人たちの平均的豊さとはなんの関係もなく、たんに、ITかなんかの詐欺的商法で成り上がった怪しげな成り金長者が、そこで住民登録しているだけだった、なんてことがあるが、それと似ている。ほんとに正しい統計値を計算するには、奇形的なデータは、排除しないと「平均所得」は実体を繁栄しなくなってしまう。

勝手に注釈。ある母集団の実態を反映する指標として、代表値は選ばれる。平均値は母集団が正規分布に近い場合にのみ、その集団の指標となりうる。この、平均所得のマジックは統計の教科書でよく用いられ、最頻値や中央値を使うべきだ、という結論が導き出される。ただ、平均値×人数、で、集団の総計が計算できるのでそういう意味では便利。