http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/false_quakeproof_data/?1136189730
姉歯元建築士はこれまで、木村建設(熊本県八代市)の篠塚明・元東京支店長(45)から「鉄筋を減らせ」と圧力を掛けられたことが、偽造の動機だと弁明。しかし、川崎市のマンションに同社は関与しておらず、「圧力」以前に偽造に手を染めていた可能性も出てきた。
姉歯、従犯説を唱えていたけれど、なんとなく主犯っぽい風向きも。
http://d.hatena.ne.jp/judge/20060102/p1
どーも私の頭の中には「萌えゲー」⇔「純愛ゲー」という一つの評価軸があるようだ。全てのエロゲーにヒロインが登場する以上、この二つは対極の存在となっている。
「萌えゲー」の典型は、『パティシエなにゃんこ』『ToHeart2』『サフィズムの舷窓』あたりか。
ちょっと言葉の用法がわかりづらいように思える。
現象的エネルギー ←→ 名作的エネルギー、という評価軸もある。
キャラクター志向 ←→ 物語志向( ←→ 世界観志向)
開いた作品 ←→ 閉じた作品
というのを考えてはいるのだが。
http://d.hatena.ne.jp/Hayashida/20060102/1136178442
ゲーセンの最大の敵はなんといってもパチンコホールなんですが、「あっちはギャンブルだし仕方がない」と思っていたところへ、換金性のまったくない7号転用機をいざゲームセンターに置いてみると、これが他を圧倒的に引き離した売上を叩くのですな。
これは、(換金性のある)ギャンブルの代替、という気もする。
さておきブログってのもそんな感じで、まあ日本人が許容できる「参加するメディア」としてのブログの可能性ってのは、パチンコ台のハンドルを握る程度の「参加」ぐらいでしか成り立たないのではないか。
まあ例えばとある事情が問題になったとする。で、ブログで話題になっているかどうかを探す。するとURLリンクと「○○キター」とか「笑ったw」みたいな一言コメントだけのブログが山のように引っかかるだけで、「その事情」に対する記事ってのは大本をたどって見ると一桁件数しかない。しかもその「記事発信源」は特定の人物にいつも偏るという悲しい結果になると思う。
だから、はてぶが流行る、という感じ。
http://d.hatena.ne.jp/cogni/20051215/p1
突き詰める、飽和する、もしくはhabituation等といった言葉で意味を示せる、消費者のある属性への慣れが、嗜好の変遷を産むことを前提として、その進歩の方向性としては三種類の方向があると思われます。
一つはメタ化。
もう一つは遷移とも言える、嗜好の状態変化。例えば、妹ブームから姉ブーム。この変遷過程においては、無償の愛を、影から兄に奉ずる者としての妹から、積極的に弟に愛を呈する姉という、行為主体(=主人公)の能動から受動への変化が見受けられます。
最後のカテゴリは畸形化。腹黒ヒロインを待ち望むO君などの嗜好の変化もこちらのカテゴリに属させようと思います。ただしここにおいては、「本当に腹黒い」のか「主人公を愛するが故に腹黒い」のかどうか、邪悪な行動を起こさせる原因の分別をハッキリさせる必要があり、後者ならば純愛の変化形の一つとして見なすことが出来るが故に、純愛の畸形化としての腹黒がこのカテゴリに属する理由足り得ます。過剰な属性の詰め込み(例えばでじこなど)もある種の畸形化であり、メタ化に通じるものがあります。
つまるところ、我々は快感を与えてくれる他人を望んでおり、そこに主体としての思考は介在せず、自由も存在しないが、それをディストピアとして評するのではなく、ユートピアとして認めるべき時代が到来していることを感じさせます。
終わりのない停滞の中で、ヒロイン達からラブラブ光線を浴び続けることを望み、停滞に終止符を打つ結婚とか成長は、「可能性」という形でマルチエンドの中に回収し、物語からの離脱さえ、メタフィクションという形で織り込んでしまう、びっくりするほどユートピア。
http://elrond.art.bne.jp/d/#d03-1
というわけで、現在のぎゃるげとの嗜好の剥離を突き詰めるに、昔からのハーレム系の否定に端を発するのではないかと。(アニメ見てた時代の)天地無用あたりから既に否定してたんだが、時代はそっちに進んでるのだな。
無償の愛を求める方向にそれを否定するスタンスだとそりゃ合致せんわな。恋愛CHU!のときに NANAが怖いと書いた覚えがあるが、これを許容せねば時代についていけないのか。
ツンデレというジャンルが成り立つには、状態遷移の最後がデレであることが確定している必要があるわけで、そろそろエンディングで絶対に失恋するぎゃるげが必要なのではないかと(ぉ
暴動が起きること必至。
http://maijar.org/word/tukibetu/200512_2.htm#051224
via
http://d.hatena.ne.jp/terasuy/
10位 16歳で美少女文庫新人賞受賞
9位 ネット上の有名人(+エロゲ出身の作家)の新刊あれこれ
8位 富士見書房の独立
7位 終わりのクロニクルのやけくそな厚さの完結編
6位 ラノベ作家のハヤカワ&創元進出
http://hpcgi2.nifty.com/FM-YAYOI/meyasubako/zakki.cgi?conf=zakki&css=meyasu#1133926924
Q.リアリティとは、どう解釈すべきでしょうか? 例えば、エンタテインメント小説で内容を面白くするために刑法などについて架空の条文を引用することは可能でしょうか? 時代小説における考証の問題が取り上げられますが、忠実に表現することがリアリティの追求であれば、社会派小説で法律問題を現法に即して表現するのも同じことが言えると思うのですが?
A.リアリティとは、物語の虚構世界における辻褄です。それが現実に有り得るか否か、ではありません。
道具立てから登場人物の心理描写まで全て、その虚構世界を支配しているルールに照らし合わせて、辻褄が合っているかどうか。法律に関しても同じ。これなどはSF本格ミステリーとして有名な『鋼鉄都市』『はだかの太陽』などを読んでみれば良く理解できるかと思います。
リアリティーは、「物語内の整合性」であり、「読者の世界観、との整合性」であり、「現実の世界の整合性」、だ。現実世界の小説で架空の条文を設定することは、激烈な違和感を引き起こすに違いない。もし、その必要があれば、現実世界に似た異世界を導入すべきだろう。
ファッションの戦術的な部分って、自作と似ている。けれど、戦略的な部分というか、もっと外交的な部分って軍事と似ている気がする。
普通の国は、一定の軍備を持って、その上で演習で恫喝したり演習で恫喝し返したりと示威行動をやりあって生きているわけだ。なかには、新鋭装備を誇示して周辺国を威圧する軍事国家もあったり。
で、なかには「非武装中立」とか「無防備都市」を宣言するところもあったり、逆に、「うちは軍備がないけれど、なにから揃えたらいいでしょうか。やはり、戦車は時代遅れなので攻撃ヘリを一杯買おうかな」なんて質問するところもあったり。
ということで、国内や、近所の弱小友好国と外交している間には問題がないのだが、多国籍軍に参加するときに、強国がビームスの戦車を持ってきて、一緒に参加するボクはイトーヨーカドーのジープだったりすると、なんかいたたまれなくなって、じゃあユニクロの装輪装甲車を買おうか、そんな兵器論になったりするのだが、そこへ、戦争反対、軍事力がないから圧力をかけるほうが悪い、という兵器論、戦術論、戦略論を超えた政治論がでてきたりするので議論っておもしろい。