雑記

生物学と、文学との間に

18世紀くらいまでは、生物学の次に文学とか法学とか神学があったんじゃないかな。知らないけど。
ほんで、進化生物学が挟まって、そして心理学が挟まって、動物行動学が挟まって、ワイの好きな進化心理学が挟まって、

生物学 進化生物学 動物行動学 進化心理学 心理学 社会学 法学

みたいな階層になってる。なんていうか、生物学的諸条件を自動車のプラットフォームとかエンジンとかであるとすると、動物行動学的諸条件はサスとかエンジンのチューンナップ、進化心理学的諸条件はファームウェアとかメーカーオプションみたいなものだろうか。違う?

ともあれ、動物行動学的、進化心理学的な「社会化される本能」は先天的とも後天的とも言い難いので安易に分類するのはどんなもんかね、と。


まあ、例の羅漢さまのように「欲望(desire)」と「欲求(need)」(と要望(demand))に分ける方がスッキリするか。文化人類学はどのへんに挟めばいいだろ?




小学校教育は「型稽古」

小学校教育は「型稽古」であって、「なんで脳天打ったらいけないの?」「なんでしゃがんで足払いしたらいけないの?」って質問には、至近には「型稽古だから」っていう回答になるのだろう。
ちょっとみた剣道型で、正眼からの相打ち、鍔迫り合い、相手が上段に構えるところを胴打ちという型があったが、そこで「鍔迫り合いになる前に膝蹴りすればよくね?」っていのは「型稽古の趣旨に反する」ってことになる。

このへん、「型稽古を型稽古として受容できる」タイプと、「勝利という最終結果への一過程として型稽古は必要である」と達観できるタイプはいいのだが、時折「ワイ、一本入れたのに負けた。なぜ?」と型通りに演技せず困る人がでる模様。


もっとも、小学校では「授業中の勉強は結果を得るために行うもの」としか教わらず、型稽古の心得みたいなものは教わらなかった記憶はある。
バグを減らすために、言語によっては型チェックを厳密にしており、掛け算の順番なんかはその援用として認識している。
(ただ、そのことを十分説明せずに×を付けるのはクソだと思ってるが)



(窓口)民主主義は機能していない

!

行政の末端の窓口の担当者に「憲法に基づいて、私の主張するように予算措置を講じろ」と叫ぶと担当者が「はいぃ」と奔走し市長に掛け合い議員を説得し増税もせずに予算措置を実現するのが”民主主義”だとするなら、それは昔から機能していないし今後も機能しないだろうな。
(一般に)自然権的なもの、そして(一般の)「健康で文化的な最低限度の生活」に不足しているものについては別だけど。


民主主義っていうのは、1000円で唐揚げ定食にするのか、10000円で松阪牛本マグロコースにするのかを会員が選ぶ体制のことで、「議決の結果、食事は1000円の松阪牛本マグロコースに民主的に決まりました。幹事、民主主義なので実行してください。実行できないのは非民主的なファシストです」という体制ではないと思うんだ。


傾国の警告

作り話ね。
「大震災の前日、ちいさな地震があった。それを『大震災の前兆であり、直ちに避難すべき』と予言した人がいた。それをみたマスコミがなんてすごい人だろうと過去の発言を調べた。するとその人は、小さな地震があるたびに『大震災の前兆であり、直ちに避難すべき』と発表していた」
こんな笑い話がある。


特異度の低い兆候をもって、結果を予測し対策すべきであった、っていうのはねぇ。

青信号で事故の警鐘

たとえば、「青信号で渡ってもこんなに事故があるよ!」というエントリーを書いたとして、
「お前は青信号でもわたるなというのか。地面に穴を掘って渡れというのか。歩道橋まで10km歩いて渡れというのか」
って言われても困る。
強いて言うなら、「青信号でも左右を見て渡ろうね」
というメッセージである。