医療全体から見た場合は何%かは死ぬもんだし、何%かはダメな医者がいるし、何%かはミスもおこるもんだ。この手の問題はゼロに近づけるべく努力をするのはいいと思うけども、何%かをゼロにすることはできない(あるいは非現実的なコストがかかるとか)。
だが逆にその何%かに当たってしまう人から見ると、その人にとっては100%だ(って言いたいことわかるよねえ)。まだ当たっていない人にとっても何%かの確率でそれに当たることが許容できなくなっている。そういう意味ではひょっとしたら死生観の問題なのかもしれない。しらんけど。
このように、全体を見回したときの最適化状態と、その被害者になるかもしれない側からみたときの最適化状態が大きく剥離しているのが現状で、手の打ちようがなくなってるんじゃないかなあって気がする。この話は医療の問題だけじゃなく、例えば安全のために監視社会になる話とか、結婚観とか就職の話とかそのほかもろもろ全部根本が同じようにおれには感じるのであった。
http://d.hatena.ne.jp/strange/20070517#p3
リスクとコストとリターンが、激しく乖離すると、事業者は潰れるような気がする。そう思わないなら、手形を1割引くらいで買い取ってくれる屋さんを開業してほしい。
どっかにあったかな。ある人が、手術の日付を動かして欲しいと。医者が、「それには、他の予定者全員の日付を動かさないと無理だ」と答えると、「じゃあ、そうしてください」と。
こういう話を考えると、留保のない生の肯定を唱えるデカルトが飛んできて思考が止まるので困るところ。今までは、留保がない「ふり」をしながら、空気の読み合いで都合をつけていたけど、最終的には、アメリカ式の、「予約の時間にベテラン医師のクリニックに行くと、革のソファーを勧められ、美人秘書の差し出した紅茶を飲みながら治療の相談をする、但し高額保険に加入している人だけ」に落ち着くのかな。どのくらい留保がつくか、は、お財布に相談。それ以外の留保は、「あなたは、どんな資格をもって生の肯定に留保を唱えるのか」とマスコミと市民団体が殺到してもじられちゃうような気がする。