義務とか権利の設定について

* A→B
* 夜8時に繁華街を歩いてました→米兵にレイプ→少女にも責任が
* 基地移転に反対しました→補助金カット→市長にも責任が
* ホテルで集会を開きました→右翼が街宣して迷惑→日教組にも責任が
* 白人に席を譲りませんでした→逮捕→ローザ・パークスにも責任が

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080213/p1


被害者側に、どこまで「注意義務」「危険回避義務」を「設定」するか、じゃないかな。
歩道を歩いていた人に、酔っ払い運転の車が突っ込んできて跳ねられたとしよう。
「もし、歩行者にSPがつき、常時前後左右を警戒しながら移動していれば、早期に異常な運転をする自動車を発見し、回避できたかもしれない」
という、鍵括弧の中が文章として成立していても、歩道を歩く歩行者には、そこまでの注意義務を負わないので、過失を問われない、そう考える。


これが、「運転中、交差点を無理に右折しようとする自動車がいたが、こちらが優先なので直進した。ガシ。ボカン。事故が起こった。」
というケースであれば、直進車にも「注意義務」「危険回避義務」を怠った「過失」「責任」が追求される。右折車に気づかなかったときも同様。


さらに、「青信号で歩道を渡っていたら、交差点を右折しようとする自動車がいた。ガシ。ボカン。跳ねられた。」
というケースであれば、歩行者の責任が追求されることは少ないと思った。「歩行者が、右折車を察知していれば事故は起こらなかった」と言うこともできるけど、歩行者に、そこまでの「注意義務」「危険回避義務」は設定されない。


 まあ、長くなったけど、「事故が起きたのは避けなかった/歩いていた 歩行者が悪い」「酔っ払い運転は、交通機関が無い自治体が悪い」「ケータイに出たのは掛けたほうが悪い」「スピード出したのは、真っ直ぐな道が悪い」などなど、理由を設置することはいくらでもできて、ただ、その理由が正当かどうかは、個人の価値観、それを含めた社会の設定によると、そんな話。

もうちょっと。

 我々が、「彼女に落ち度があった」と話すことは、世論の水準を変化させると思う。
 青信号でクルマに跳ねられて、「信号無視の車を想定して左右を見ていないお前も悪い」と言われる世の中はちょっと困る。


 青信号で跳ねられて入院したひとに、「青信号でも左右をみなきゃ」とは話さない。それと、我々が、近縁者に「ジャングルは地獄なので、青信号でも左右をみましょうね」と話すことは矛盾しないと思う。
 もちろん、ある被害者がその言葉を聞きつけて、「あなた方が近縁者に青信号での注意を呼びかけることは、間接的な私への非難である」などということがあれば、それは、我々には仕方がないこと、としかいいようが無い。