留保の無い生の肯定を

私たちには生まれた瞬間から生きていく権利が保障されています。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070825/1188035354

権利を保障してほしかったら、保障料を自ら支払うか、誰かに支払ってもらうしかないのだ、と。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50900085.html

というやり取りがあった。前者は、夢想的リベラリスト、人権活動家に思えるかもしれないが、以前の記事をみると、自己責任というものを、キチンと理解しているようではある。

たくさんの人が、福岡で起きたいじめの「悪者・犯人」をつくろうと

しているわけですが「いじめられるだけの理由」も思うわけです。

かれは、頭も良く成績もトップクラス、いじめた側にしてみればハナにつく存在

に見えたのかもしれないですよね。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061022/1161507804

ちゃんと、いじめられる人の自己責任について言及している。


 さて、権利を保障する為には、純粋な保険だけでなく、税制を定め、社会保障を制定させる、という手段があることは、歴史をみればよく分かると思う。ただ、ソ連の崩壊を見ると、社会主義的な施策には一定の限界があるとは思う。


 で、「要求」を出せば、誰かが「仕様」をまとめ、「実装」し、請求書を発行し、「回収」する「べき」だから、「要求」を出すことと、「実装」「営業」は等価である(あるべき)という論法は、言うだけならタダなんだけど。


ままならないものだ。

 両者とも、おそらく、そんなに立ち位置に違いはなく、レトリカルな問題*1が大きな部分を占めるのでは、と書こうとしたら、こういう文になった。ままならないものである。

*1:ただし、精神的なものが、修辞に反映している、と主張することもできる