責任を学ぶということ

小学校の給食の時間。僕の母校では牛乳は牛乳瓶で出されていたのだけれども、ある時、僕は瓶を倒して自分の牛乳をこぼしてしまった。わざと倒したわけではなく、手が布巾に引っかかってとか、そんな感じだったと思う。


その時の僕の考えは、こうだ。「あ、倒れちゃった。でも、わざとやったんじゃないんだから、僕が悪いわけじゃないよね。わざと倒したんだったら怒られて当然だけど、わざとじゃないんだから怒られる必然性はないよね。」それで、倒れた牛乳瓶のことなんかほっといて続きを食べていた。なんといっても、その日のメニューは僕の大好きなカレーだったのだから、そっちの方が僕にとってはずっと重大事だった。

http://piro.sakura.ne.jp/latest/blosxom/topics/2007-07-01_hushimatu.htm

 男の子の場合、責任をコントロールする作業を(母)親が肩代わりして、勉強に邁進させる傾向があったりしちゃうんだろうか。ちいさな自由と小さな責任を与えて、それをクリアしたら、自由と責任を拡大する。それを捻じ曲げて、勉強したら自由を拡大する。そんなふうに。
 いや、留保の無い生の肯定を!デカルト。大人は自由を束縛する存在だ。盗んだバイクで走りだすけど、図面どおり部品を作るような大人にはならないぜ。教室のガラスは割るけど、まっすぐなガラスを作る大人なんてまっぴらごめんだ。太く短く生きるぜ。