例えば、暴力の話をしよう。
今の日本では、外形的に、外力を与えることを狭い意味での暴力と呼ぶ、んじゃないかな。
但し、スポーツ、SM(?)など、相互の了解がある場合には例外となる。体罰、しつけ、などは、管理者・保護者の裁量範囲とされてきたが、最近では例外として認めない、という雰囲気。
暴力を、遊びだから、子どもだから、プロレスごっこ、などといって矮小化することは、一部*1を除いて矮小化した側の人格が疑われる行為となる。といいね。で、本人の感じた感情、不快な不快感、というものは、尊重すべきもので、それらを否定することは、人格否定につながり、苦痛の内面化につながる*2。もちろん、外形と、個人的な感情のすり合わせは必要ではある。
そのあたりの共通認識、つまり、あなたが不当なActionによって生じた不快なAttention/stressは確かに実在し、架空のものではない、そのへんに齟齬が生じると、水掛け論じゃなくて、ガソリン掛け論になるけれど、表面上理解を示し、根本的なところで無理解を暗示すると、良く燃えるので巧妙にやるといいと思う。
自分の感情、特に性的なAttention、痛覚神経、これらは個人の裁量によってのみ、刺激されるべきであって、例外的に、許容した場合にのみ、許されるべき、と考えられているんじゃないかな。
もちろん、社会通念上の許容範囲は設定されているし、50km/hと51km/hの違いはあるのか、に類する話は面倒なのでしない。