http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060221/1140498131
古参のオタクさん達から、最近よく聞くニュアンス。
「オタクか否かの基準は、最近ではスペシャリストか否かを殆ど問われない」
「オタクとしての基準に、濃さという尺度は殆ど関係ない」
と。
オタクっぽさのレイヤー
- item:オタアイテムの摂取
- skill:アイテムの選択、コンテンツの制作、情報の発信
- philosophy:それらの背景にあるもの。あえて何かを行う精神?自分的には未定義。
などレイヤーがあって、
ただ単にitemを摂取する層を上位層が排撃するような話。Skillは「高い」「低い」、philosphyは「濃い」「薄い」で表現するのかな。
変遷
MS-DOSの頃は、config.sysを書けなければまともにPC-9801を動かすことができなくて、しかも情報も限られていたため、単にPCを所有するだけではなくて、積極的にSkillを向上させるphilosophyを持ったものだけがPCを趣味とすることができた。PCでゲームをするためにはサウンドブラスタ挿してIRQを調整したり、Macで絵を描くためにメモリ配置を考えてコントロールパネルをあれこれしたり、そんな話もあったし。「濃い」philosophy、高いSkillを持たなくても、ネットに繋ぎ、PCを操作し、CGを描くことができる。まあ、時代としかいえないかな。
コンテンツは穀物、萌えは蒸留酒
何回か書いたことがあるかもしれないけど、萌えって蒸留酒に似ていると思う。穀物ってそのまま齧っても美味しくない。提供する側の調理だけでなく、受け取る側もよく噛んで、初めて旨みがでてくる。一方、商業的に抽出された萌えは、発酵させた物語とかキャラクターを蒸留器にかけて精製する。すると雑味のない萌えリカーが出来て、砂糖水で割って色をつけるとどんどん飲める。作物の味を残したワインより、無味無臭に近いリカーの方が好まれるのは、まあ、時代ということで*1。
結論
「philosophy」もいいけど、「同じ空の下で」も名曲。
*1:ピートなんかで香りのついた、キツイ萌えを楽しむひともいるらしい。それはそれ。