メタ釣堀

http://yumizou.blog1.fc2.com/blog-entry-829.html

例題)携帯電話の功罪についてあなたの意見を自由に書きなさい
この問題に対するリアクションは大体こんな感じ↓になります。
1.「功罪」ということばがわからない
2.「いいところ」「わるいところ」とわかっても思いつかない
3.使っているから「いいところ」は思いつくけれど機能の説明になってしまう
 例)音楽が聴けてテレビも見れる
4.「わるいところ」はよく言われがちなことしか思いつかない
 例)マナーが悪い

 で、読んだ貴方は意見をかけるだろうか。

 この手のテーマを書く場合、テーマを何らかの切り口で切って、それを自分の史観に配置する。それなくして功罪を定置することはできない。知識の有無もあるが、史観の有無が必要だ。"philosophy"、ね。
 これが、携帯電話は、Deviceであり、Mediaであり、Infrastructureであり、Economyである。Communityの話も付随するかもしれないし、下位には言語の問題も発生するだろう。それぞれの分野で自分の(もしくは一般の)史観に参照すれば、功罪を言及することができる。
 

 なんていう文章は、全く持って釣られた文章だ。正解は、文章構造の話とか、携帯電話の功罪の話なんかじゃなくて、

 でも、大学卒業してから作文を学んだわけでもないし、なんとなく普通の文章が書けるようになったんだなあ、と。
 ある親方が「大関になれば、大関の相撲を取る」って言ったらしいんですよね。無責任だけど「ブログを始めれば、ブログの文章が書ける」とか。
 ああ、無責任だなあ(笑)

 ということだ。
 なんとなく文章を書いていればなんとなく普通の文章が書けるようになるし、なんとなくはてなを運営していれば(たぶん)なんとなく普通のサービスになるし、なんとなくBlogを運営していれば、なんとなく普通のBlogになるのだろう。


 最初の形式疑問についての答えはこうなるのかな。携帯電話について文章が書ける人間より、携帯電話に異性のアドレスが一杯入っているほうが偉い。


 と、釣られながらもどんどん書いてみる。
 活字を読む、というのと、読むSkillを鍛えるのと、そしてphilosphyを養う、というのはおんなじではない。雑誌の文章、Webの文章は、philosphyを突きつけるものではなくて、atmosphere、雑誌やBlogの空気の中でTextが流れ込んでくる。空気のなかでは、なにか自分が凄いことを考えているような気になるし、空気が抜けてしまえば、それはそれ、あれはあれ。また違う空気が流れてきたら以下同じ。文章が書けないと称する人も、誰かが空気を注入してあげればどんどんテキストを書くに違いない。プロセスを言語化し、多数で共有化する、なんていうのは不必要だ。デザイナーになればデザイナーのデザインをするし、CEOになればCEOの仕事をするのだろう。責任もたないけど。
 という変な文章を書いていないで、観鈴ちんに萌えていろ、ということか。