萌えのダーウィニズム、萌えに働くグレシャムの法則

 凄く広い意味での萌えっていうのは、人為的に抽出しうる何かに対する愛着、みたいなものかな。アニメ、マンガからゲーム、エロゲという経路で濃縮されて、それが拡散したのが今現在の広い萌え。どんなものでも擬人化して萌えることが可能なのは、先の経路を通じて萌えSkillが熟成されたからだ、と個人的には考えている。
 で、この、狭い意味での萌え、動ポモ東氏な「デタベ萌え」、は、低コストで実装、配布、再生産可能、と思われる。アニメーションでのモーションというのは再利用が困難で、実装は高価で、ユーザー側もそれを同人誌で再生することが困難だ。また、言語で表現することも難しい。ダッフルコートを着て、栗色の髪の毛で、羽リュックを背負えばたいやきうぐぅだ。一度立ち絵をつくればあとはスクリプトで動かせるし。
 物々交換から貴金属、貨幣、通貨、どんどん流動性が上がったように、萌えも流動性の高いキャラクター、そしてキャラに一旦退縮し、それが拡散し、肉付けされているのが現代かな、と思っている。萌えを語る人は、その蒸留され、退縮したキャラを語るため、それは動きのない静止画が主となるのだろう。
 


 エロゲの(あまり)無い時代から萌えという言葉はあったし、東氏が用いた萌えという言葉は少し特殊だったし、萌えという言葉は拡散している。ただ、歴史や用法をたどることで、そのアウトラインは抽出できるんじゃないかというのが私の考え。厳密な定義は不可能→定義は不可能、という論法や、言語化した瞬間に真実は霧散してしまう、みたいな論法を見るとちょっと物悲しい。いや、これが、濃くてスペシャリストな(中略)の必殺技なのかな。「白と黒の厳密な境界線は無い!したがって、白も黒も定義できない!!」