言葉の遊技場

http://d.hatena.ne.jp/kishiwadungeon/20060103#p1

非モテ論者の中には、もしかしたら「そもそも恋愛なんて幻想だよ! 実体のないものなんだよ!」と主張される方も居るかもしれないが、私は恋愛とは「その幻想の下で行われるコミュニケーションの問題」で十分だと思っているので、実体うんぬんの話はどうでも良いというか、「そういう幻想を持てなくなった時点でゲームオーバー」で、それより高次の視点を持ち出す意味がないと思っている。

http://d.hatena.ne.jp/trivial/20060103/1136246903

もし人が属性の束に過ぎないのだとすれば、諸属性を束ねているのはいったい誰なのだろうか?

 この様な論法を、しばしば目にする。「過ぎる」とか「過ぎない」とか、使うと便利な言葉だけれど、集合の要素と集合それ自体を同一に扱うこと、それ自体がアレなんじゃないかと何時も思う。命題内部でメタを発生させてメタゲームを開始するのは楽しいけどね。
 何時も思う比喩は、こんなの。
「小説は、アルファベットの羅列に過ぎないのか?いや、アルファベットの文字列であるが、過ぎもしないし戻りもしない」


 えーと、恋愛は、動物的なポモ、じゃなくて欲求とか心理学的な欲望とか、自己承認欲求とか自己顕示欲とか、社会学的ななんとかとかそういう要素の集合であって、単一の要素に還元できるものではない、という立場を自分は採用する。結婚も、恋愛とか社会学的な「家」の構築とか、そういういろいろな要素を持つもので、やはり単一の要素に還元すべきではない、と思う。
 自己言及は、やはり論理的ゲームの入場券になるので避けるが、他人においては、その属性の束に「固有名詞を発見する」と思っている。機械に固有名詞をつけて固体識別する人間もいるし(エンジン音で区別がついたり)、逆に、固有名詞を無視して同一のものとしてカウントする人間だっている。良く束ねられた属性は、固有名詞を識別しやすいので、そんな他者をみた"Self"は、属性を束ねるべくがんばるんじゃないかな。ぶっちゃけ、属性のネットワークに固有名詞がつけられる。

 極端な還元主義は、ネットワークの存在を無視し、極端な「非」還元主義は、要素の存在を無視することになる。みんな、レトリックを駆使して釣ったり釣られたりして楽しんでいるのかな。



http://kammyblog.seesaa.net/article/11330500.html

昨年のファッション談義のときにも,結局大事なのは何を着るかじゃなくて,「今の自分を変えよう.」と奮起する勇気こそが大事であり,うだうだ難癖つけて行動しないのが一番かっこわるくてモテないのだ,ってことなわけで.

 行動目標と到達目標の意図的な混同。要素と集合の意図的な混同。行動目標を示されたら、「到達目標が大事であり、行動目標は本質ではない」と非難し、到達目標が示されたら「行動目標が示されない、地に足がついていない論議」と非難する、基本的なテクニック。さらに、議論することがもっとも議論の障害となる、という自己言及の萌芽も見られる。なかなか参考になる。