"切断線の無い物語"

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051016

前回は、今日のアニメ作品において、大状況が非常に空疎なものとなり、むしろ、その空疎さを補填するような形で、小状況が機能している、そのような現状を概観した。旧来の作品においては、大状況と小状況とは滑らかな接続の仕方をしていた。常にアクセントは大状況のほうに置かれていて、小状況は大状況を構成する部分的な要素であった。しかし、現在の作品では、このようなバランスが崩れ、むしろ、小状況のほうにアクセントが置かれるようになってきた。そのため、様々な作品において大状況が描かれるとしても、それは、一種の紛い物の様相を呈するようになったのである。

 さて、現代の冒険ものというテーマは非常に興味深く、かつ、問題含みであるので、また別の機会にじっくりと取り組んでみたいが、今回主張したかったことは、それまで大状況の物語であったはずの冒険ものが、小状況の物語としてアクセントを変えつつある、ということである。日常生活の外部を旅することが冒険であるのなら、今日的な冒険ものは、日常生活の内部で行なわれているのである。

↑の感想。「ふたご姫」と「パンダリアン」も見ていないのでこちらのほうがしっくりくる。
http://d.hatena.ne.jp/tricksign/20051017

ふたご姫」と「パンダリアン」を例にマクロ的な視点とミクロ的な視点の関係について。興味深くて読みやすい文章です。いつ頃から小状況というかミクロ的というか、そっち側に比重が置かれるようになって行ったっけ?「セーラームーン」は大状況的であったと思うし、「レイアース」も極めて大状況的だったな。「CCさくら」は原作しか読んでませんが、あれは半々ぐらいだったと自分は感じる。この10年魔法少女物は「ふたご姫」が始まるまで見てないので、その間が断絶しちゃってるや俺。

 大状況といえば
・日常から大状況へ移行したけど帰ってきてゴールしてもいいよね、なAIR
・大状況へ移行して大状況が続きまくりで(中略な)ハロワ
・大状況への憧れを描き、大状況に移行したけど空疎だよコリャコリャ。セレンたんは猫しっぽなロケ夏
・大状況は示唆されるけど、描かれ方はほとんど背景な、あやかしびとや人外。
・後半戦での大状況が芸風な8月。
・状況といえば仮想戦記な群青の空。
・大状況(中くらいだけど)を捏造していた舞。

・日常から、世界の危機へ、大状況へ移行したけど、本当に大きいのは状況じゃなくて主人公の(中略)なデモンベイン


 あ、ただ単に自分の好きなゲームを列挙しただけになってしまった。

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051008#1128776309

現代における物語の問題とは、まとまりのない日常生活にひとつのまとまりをつける物語が非常に退屈なものになっているということである。もし、『プリキュア』の話が、日常生活のシーンだけで構成されていたとすれば、そこで描かれている話は極めて平凡で、退屈なものになったことだろう。しかし、だからといって、光と闇との闘いという大状況もまた、非常につまらないものなのである。そうしたつまらない二つの物語を接合することによって、何とか、物語の価値を再発見しようというのが『ふたりはプリキュア』で行なわれている必死の試みなのである。だが、この方向性もまた、最終的には、形骸化を免れないだろう。現在の『プリキュア』がそうであるように、日常生活と敵との戦闘というルーチンワークを日々こなすだけとなる。おそらく、いま必要とされているのは、日常生活を語るための別の物語である。そうした方向性に一歩踏み出している可能性がありそうなのが、おそらくは、セカイ系作品なのではないか?

 大状況の困難さ、日常生活の困難さについて。