htt://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/moe_1way.htm
真に萌えに必要なのは、自分の願望を投げ出しやすい“触媒”となり得る
萌えキャラや萌えゲーであって、他者としての異性ではない、と私はここで
断じてしまいたい。オタクがキャラ萌えを通して得ているのは、異性愛からの
代用品ではなく、変形した自己愛(或いは自分自身の欲望そのもの)ではない
だろうか。自らの願望でそのまま(;´Д`)ハアハアする萌えオタ達。他人の心が
どこを向いているのかに敏感な女性達は、こういったオタクの心性を鋭く
見抜いていると思われ、この事が女性達をして萌えオタを敬遠しむる原因の
一つになっているのではないかと私は疑っている。女性の側からすれば、
女性を「萌えキャラの如く」願望達成の触媒にしかねない男なんて到底許し難い
存在なわけで。女性達がキモいと萌えオタを批判する原因は数多くあるだろう
が、この自己愛的傾向もまた彼女達に嫌悪感を感じさせる一因になっている
のではないかと思えるのだ。
"萌え"が、願望投射の一形態であり、自己愛の変種であることは周知のことで、電車男に代表される"オタク萌え"現象へのカウンターではないかと理解してみる。
また、君望についてのコメントもあった。
一方で、こういった展開は一部オタク達には厳しすぎるものがあったのか、
「鬱ゲー」なる言葉が出現したことも記憶している。こういった背景もあってか、
「鬱ゲー」と呼ばれ得るジャンルは諸影響をエロゲー界隈に残したものの、
大きな潮流を形成するには至らなかった。また、ネット上では「鬱ゲー」という
表現こそあちこちでされていたものの、「複数の可能性から一人を選ぶ事の
意味」といった面について言及しているレビュアーが非常に少なかった事も
印象的に残っている。
"オタク的キャラクター消費、自己愛へのカウンターとして制作された君望という作品"が、オタクによって都合よく改変され、キャラクターのみ消費された、という解釈。