(映画の感想と、どこかのエントリーへのコメントを兼ねて)
産まれたての子供は、自我の内面と外面とが非分離である。全てが内的世界ともいえる。
成長するにつれて、内面と外面は分離する。そして、内面が(幸か不幸か)充実し、確立し、外界と強固な境界を形作ってしまう場合がある。かもしれない。
閉ざされた内面は、他者との接続を求めるが、メッセージは外的人格によってモディファイされ、言葉というコンテナで歪められ、そのままの形で伝達することはできない。そして、幸運にも到達できたメッセージも、言葉を解体し、デコードする過程で変質してしまう。と仮定する。
幸か不幸か、内面を増大させてしまった少年少女。孤立した内面は、お互いに共鳴する。しかし、彼ら彼女らは、内面を表現し接続する手段をもたない。言葉によるコミュニケーションでは稚拙な表現しかできず、接続は不十分であり、もどかしさを実感するのみ。内面の直結には、一旦内面から「外部」への道筋を開き、そこを通して他者内面に接続しなければならない。
外部の象徴、外部への経路の例
・雲の向こうの塔
・空
・消える飛行機雲
・夏の線路
・町外れのバス停
外部に辿りつき、内面を接続するための手段の例
・バイオリン
・夢
・ケイタイ
・アンテナ@放送部
・エチ
内面の接続は、心の解放をもたらす。その結果、内的世界は健全な自己によって中和され、安定するが、皮肉なことに、閉塞したセカイでのみ育むことができる純粋な内面は霧散せざるをえない。という展開もある。内面の解放は、主人公を通して「のみ」可能であるとし、ヒロインのフラグは立ちっぱなし、というのが正しいエロゲ的展開である。
もちろん、健全な(?)自我を持ち、現実の世界(=社会)と、自己の外面と、自己の内面とに折り合いをつけられる人は、そのコミュニケーション能力を用いて、社会化された手法で他者と接続できるため、内面の陥穽には嵌らないのかもしれない。美少女が落ちてこなくても、飛行機に乗らなくても、内面の牢獄は越えられるのだ。彼らにとって、外的自己とは、内面を封じ込めた牢獄ではなく、人間の本体であり、内面こそが架空のものであるのだろう。そう。外面と外面とが社会的に接続され、彼らを成立させているのだ。