"ワイマール共和国のハイパー・インフレーション"

有名なハイパーインフレは、?戦後の講和会議で天文学的な賠償金案が出された二九年一月、?賠償金額の確定後の二一年五月、?賠償の支払えないドイツに対する制裁として、フランス軍ルール地方に進駐した二三年一月から破綻に至る一一月までの三期において加速しました。

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また産業資本家はその経験から、マルクの継続的な下落によってのみドイツ製品は市場で競争力を保てると考えていました。

一九年一月からのインフレでは、マルク安によってドイツ製品の輸出が好調となり、それに伴いアメリカ製品の輸入も増加しました。インフレ率は数倍程度で、当時のドイツは世界経済唯一の推進役とよばれるほど好調だったのです。失業率は低く、株価は名目値で上昇し、ベルリンでは高級ナイトクラブが何軒も新規オープンしていました。借金のできる者、事業家、貿易商は借入で実物や不動産に投資すればインフレにより返済が楽だったので、巨額の資産を作れたといいます。そしてユダヤ人の中にそれが目立ったのが、後のナチスの動きにつながります。一方で高級官僚や大学教授、年金生活者など固定給の中産階級は数倍のインフレによってすでに貧窮を極め、食料の入手さえ困難な状況になっていました。また労働組合は集団交渉力を生かしインフレ率に沿った賃金上昇交渉を繰り返し、知的労働者よりも肉体労働者の賃金が上回るようになりました。貨幣を貯めていても仕方がないことから人々は消費に走るようになり、マルク安から外国人の買い物客を呼び込みました。日本人はカメラを買い漁っていたそうです。

ドイツ国内では都市居住者の中に飢えが始まっていましたが、外国人には贅沢なグルメ旅行のできるパラダイスだったのです。

どっかで見たような風景