危険感と危険度:交通事故はなぜなくならないか:安心する危険

2007年の記事。

 危険感と実際の危険度(事故発生件数)は、合致しない。そもそも食い違っていることが多いもの。
 文化的・社会的に受け皿ができているリスク/事故は、わりと忌避感・危険感が少ない。(例えば交通事故、風呂場での死亡、水難)
 逆に、文化的・社会的に「異様で受け入れがたい」と見做(みな)されているリスク/事故は、危険度とは別の機序から過剰に忌避されることがある。(例えば原発、殺人、遺伝子組み換え、死体処理)
 そこから、リスクを減らすことより危険感を減らすことを優先する国と、危険感を減らそうとせずにリスクを減らすことを優先する国、そんな対比も描けたりする。

http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-888.html


小学生死亡事故とてんかん
http://ameblo.jp/moonsun3/entry-10867098103.html



 危険度に差がなければ、その危険を糾弾することは差別であると考えているが、「マイノリティーが行動しなければ(いなければ)、マイノリティーによる事故(犯罪)は起こらない」式の発言は少なくない。「マジョリティーが行動しなければ(いなければ)、マジョリティーによる事故(犯罪)は起こらない」式の発言は… 時々あるかw 「マイノリティーにも生きる権利*1がある」というと、「なら、被害者*2の前でそう言ってこい」式の発言が出てくる。総体と同程度のリスクは、部分についても甘受すべき、という結論にしたいけど、そうすると「リスクを受け入れろとは何事だ」という話になり、マジョリティーのリスクについて言及すると「留保のない生の肯定を留保するのか」という話になり、もう、みんな特区作ったら、みたいな展開に。

*1:マジョリティーと同程度に

*2:マイノリティーによる