http://d.hatena.ne.jp/mowamowa/20070130/1170123426
まず、私は、報道や出版というものには、社会的責任を持つべきだと思っている。別に、社会に対して責任なんていらない。上司と代理店にのみ責任を負う。珊瑚に落書きしたっていいじゃん。写真はコラでいいじゃん。証言は顔と音声変えた社員でいいじゃん。実験なんてしなくていいじゃん。視聴率だって調査会社に金掴ませて操作すればいいじゃん。人間なんて、こんなものです。で、いいのなら、もう、話はおしまい。グラフの形式だけじゃなくて、数字だってなんだってでっちあげれば良いと思う。「○○は、××にとって合理的である」とかいって、捏造だってグラフの改変だってバケツでウランだって合理的だ。
なんか、釣られたっぽいな。書いていて飽きてきた。でも書く。
1%が誤差であるときと誤差でないときがあるとき、グラフはそのデータにおいて1%がどちらの意味での1%なのかを教えてくれない。その1%がどちらなのかを「正しく」主張するのは、表現者の責任だ。
結局「データの見せ方」という面で、表現者の良心というか意図のバイアスがかかるのは避けられない。データを省略やバイアスをかけずにそのまま見せて「ほら、差がない」と見せるとき、その人は重要な、しかしわずかな差を隠したいかもしれないのだ。一方、本当に差がないことに意味があるときもある。どちらなのかは、表現者が判断してグラフ上に見せてやるしかない。
釣られながら書く。
私は、データそのものと、その解釈は別物だと思っている。
研究者、調査者として、グラフからその1%の重要性が読み取れないのは、調査不足だと思う。
くりかえし引用するけど、
データを省略やバイアスをかけずにそのまま見せて「ほら、差がない」と見せるとき、その人は重要な、しかしわずかな差を隠したいかもしれないのだ。
だから、省略やバイアスをかけずに見せて、その上で、僅かな差の意義について議論すればいいと思う。
「正しい」グラフが僅かな差を隠したいものなら、「変形した」グラフは僅かどころではない差が隠されていると思うのは、私だけだろう。
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20070128.html#p01
事業者数のグラフは、軸をいじればいろいろ書くことができる。
でも、棒グラフの性質からいって、適しているのは対数軸でも、省略もされていないグラフだと思う。それは、数量の比例関係が、そのまま面積の比例関係として認識されるからだ。もっとも、省略しないと、日本の繊維工場が減少した痛みが伝わらない!それは労働者が!!格差社会が!!美しい国!謝罪を!告訴!と考える人もいることは想像できなくもない。
高木氏の例示した下の例では、おそらく制作者は「プレジャーボートによる事故が増えている」ことを言いたかったようだ。でも、面倒だったのか億劫だったのか、海難事故審判の総数のデータしか得られていない。グラフから(=実数から)読み取れるのは
- 海難事故審判の総数は、徐々に増加傾向にある。
- 増加が、年ごとの変動=誤差なのか、プレジャーボードの事故の増加なのかはグラフからは読み取れない。
かな。
制作者は、プレジャーボート事故の増加を取材対象から聞いて、それを簡単に表現するため、このような形を選んだのだろう。ただ、目的のために手段を歪めるというのは、好きになれないな。