忠告と苦い薬

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20070113/p3
 たとえ話は、説得元の例え話を、説得先が同意した場合には有効だけど、説得先が例え話の使用に同意しない場合*1、あまり意味はない。時折、相手が同意していない例え話の中での合理性を訴える人がいるけれど、相手の話を聞かないというのは議論に負けない第一歩だ。あ、リンク先の話じゃなくて。


 さて、

 しかし、これが忠告やらカウンセリングやらとなると話が激変する。人は、耳障りの良い忠告や、心地よいカウンセリングならば嬉々として飛びつくが、ちょっとでも苦みや痛みが伴うとこれを遠ざける。過度の砂糖が虫歯や糖尿病を悪化させるように、またはビールが痛風を悪化させるが如く、甘言はしばしば人にとって有害である。逆に厳しい一言・受け容れ難い忠告が問題解決に最短距離であったりする。もし、苦い抗生物質や痛い注射を受け容れる程度に理性的ならば、苦い忠告や息苦しい診療面接も受け容れられるものと思いたくなるが、どうも話はそんなに簡単では無いようだ。

あのコメントの意図は、「苦い薬を忠告に置き換えるのはちょっと喩えが極端すぎるかなあと思った」というところですね。
コメントにも書きましたが、自分が直面しなければならないものとその苦痛の持続時間が違うので(痛みがない疾患に苦い薬を飲むケースを考えても)、やはり違う話になってしまっているような気がします。

 服薬は受け入れても、運動とか食生活の改変とか禁煙とかは受け入れない人が多そうなのだけど。
 薬剤とか、TVCMに出てくる健康グッズ、CMとCMの間に流れる健康によい食品は嬉々と買いにいくのに、明らかに体に悪い過剰な脂肪やエネルギー、ニコチン、エチルアルコールは喜んで摂取して、それを指摘されると「美しい国ウザイ」「食育ウザイ」「自動車の排気ガスの方が悪い」「後ろに目がついていない」「灰皿が置いてあった」「禁酒法が」となる。逆に、健康にあまり影響の無いものが、危険と排斥されることもある。
 ともあれ、比喩の位相に注意。病識の無い人に服薬を続けさせるのは面倒かもしれないよ。


 

*1:そのモデルの採用は同意できない場合