"差別する自由?"?

http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060216/p2
差別という言葉をどう定義しているのかな。
われわれは、人間を、そのカテゴリーではなくて、要件でもって評価するべきなのだ。その作業を忌避し、自分と同じカテゴリーの人間に高いバイアスを与え、異なるカテゴリーにネガティブなバイアスを与えることを、差別、と呼ぶ、と思う。

僕が「障害者であるがゆえに」、差別を受け大学教員になることを当局から断られたとしよう。

 仮の話であるが、視覚に強い障害を有するものが、自動車運転の免許を拒否されても、差別とは思わない。が、彼が、文学や哲学を教えるとしたら、それは研究能力や教育能力で採用を決定するべきだと思う。評価基準を公開せず、カテゴリーによって評価を下すことは、少なくとも公的機関においては非難されても仕方はないだろう。
 もし、評価基準を公開し、彼が能力を持ちながらも、大学の施設、支援体制の不備によってその能力を発揮し得ないためとして、採用を拒否されたなら、われわれは、ノーマライゼーションに向けて働きかけをしなくてはならないと思う。カテゴライズによる他者の簡易的な分類と、カテゴライズを必要とさせる社会の障壁、その解消にむけてわれわれはなんとかするべきなのだ、と思うネット右翼とカテゴライズされたオレ。


TBどうも。定義について読みました。

それでは、黙っている被差別者の「代わりに」語るべきであろうか。僕は、そうすべきではない、と考える。代弁することは、さらに被差別者が潜在的に持ちうる主体性を根底的に破壊するものだ。では、私たちにできることは何なのか。私たちがすべきことは何なのか。

それは、被差別者をそんなふうに捨て置く社会が現に存在すること、そしてそのような被差別者が存在することを、具体的に指し示していくことではないか。被差別者を「代弁する」のではなく、被差別者の存在と、被差別者を再生産する社会の仕組みをあらわにしていく、そのことが重要なのではないのか。そしてそれこそが「サバルタンは語ることができない」ということなのだと僕は理解している。被差別者は「語ることができる」。この社会が、そしてあなたが、私が、語らそうとはしていないだけなのである。

 なんらかのディスアビリティーを持ったものを恣意的にカテゴライズして、彼らを被差別者と呼び、差別することのない時代がくればいいなと思う。カテゴリーの向こうに手を差し伸べるのではなく、お互いが同じ土台に立って。そのために現在の社会構造を明らかにすることは大事だと思う。