教養小説の不可能性

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051018#1129609692

教養小説というのは、結局少年が「世界」と出会いそれに参入していくことを描く物語で、つまりは象徴界の確立と共有、とでもいう過程を描くのだけど、象徴界自体がいい感じにアレしてる現在、成り立たないのです。出会い、参入すべき実体がそこにはなく、あったとしても魅力なく脆弱であり、だから参入できないし、できたとしてもしたくない。それでも人間は「成長」しなければならないというテーゼがもう一方にある。

このジレンマを克服するために、現代の教養小説は「メタフィクション」というメソッドを選ぶことが出来、それはかなり相性が良い。つまり、世界を、大人になるということを脆弱なフィクションとしてしか捉えられない「ぼくら」にとって、メタフィクションこそが、「世界」をフィクションとして解体し「セカイ」へと置換した上で、その外側に立ち、理解し、記述し、受容あるいは超克するための最も妥当な手段なのだから――とか。まあそんな感じです。