議論できる人、できない人、祭る人、祭られる人

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A「俺、朝は毎日納豆に味噌汁だよ。納豆サイコー!」
B「あー、あたしも納豆大好きー。ねぎとか入れるとおいしいよね!」
A「だめだよ。納豆にねぎ入れるなんて邪道。」
B「えー、おいしいのにー。」
C「は?納豆なんて食べれたもんじゃないじゃん。あんなまずいもののどこがいいんだよ。」
A「え?だって納豆うまいじゃん」
C「うまくないよ。腐ってるんだぜ。」

という会話が交わされているとします。

 コメント欄にもあるが、この"議論"、議題が決まっていない。テーマは決まっているかもしれないが、目的が決まっていない。誰と誰が仲がいい、とするメタな議論か、おいしさを定義するベタな議論か、と、議論の水準自体が争点となる。
 例えば「当社は、朝定食に納豆ネギというメニューを追加すべきか」「広報の料理欄は、ネギ納豆か、アジ干ご飯か」という議論にすれば、争点は明確になる。そうでなければ、個人の尊厳と切り離した食事の議論などできるはずが無い。他人が美味しい(不味い)といったものを、自分が不味い(美味しい)と感じたとき、そこには大きな溝が横たわっている。「個人の話のようで、個人と切り離した議論」を行える人間なんて、かなり限られるとおもうのだが。