誤配と無痛社会

htt://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050718#p01

つまり、「健常者は昼、目の不自由な人は夜」という棲み分けをするというアイディアは、両方が自分たちのペースで気兼ねなくプレーできるので、理想的な解決法に思える。確かにこの方法によって、無駄な摩擦を回避することはできるが、同時にそれが障碍者と健常者の共存とは何か考える機会を奪うことにつながる。

例えば、前に障碍者の人がいたとしても、「待たせてすみませんね」「いえいえ、どうぞごゆっくり」といったちょっとした会話で、お互いに気持ちよくなごやかにプレーを続けていくという可能性はある。そこに起こる相互理解は、単にゴルフがスムーズにプレーできたという以上の意味がある。棲み分けによる分断化によって、そういう可能性はなくなる。

 取り乱しの権利、というらしいが、東氏的の言葉、「誤配」の可能性、と同義なのかしら。この辺の話の発端、リンク禁止問題については、以下のサイトが面白い。
htt://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050718/1121649758

また、何の権限でもって「禁止」を宣言しているのかは不明であるが、しかし、「禁止」を行うという振る舞いを通じて何らかの権限が自らにあるのだということを示すことができる。そしてそれによって何らかの威信を獲得することができるだろう(とはいえ端から見たら滑稽な話だが)。そして、このような「禁止」の宣告を効果的なものとして可能にするためにこそ、「無断リンク禁止」を掲げるサイトは公に公開されなければならない。

 政治家と牧師と技術者の話
http://arton.no-ip.info/diary/20050715.html#p01
 ↑の元ネタ?
http://hp.vector.co.jp/authors/VA000092/jokes/

 非合理性を、非合理性として残そうとする派と、非合理性を同じレイヤーとして認めず、合理的な空間の中にカプセル化して残そうとする派は、相容れないんだろうな。