http://www.geocities.jp/bommad/mad/gundamgosya.html
via
http://d.hatena.ne.jp/isakiku/
小泉首相の靖国参拝
英霊として祀られている方々は、日本国の繁栄を願って亡くなられたのだから、「日本の繁栄」を約束しに行く場所である。
この一文には同意しておく。
さて、日本の南方での戦死者の8割は、病死または餓死という話がある。日本のエライ人が彼らに心から誓うことがあるとすれば、「もう飯食わす見込みが無いのに前線には送りません」ではないか。もしくは、「格好いいこと行っておきながら、真っ先に逃げるような高級将校は任官しません」ではないか。
ミステリ経験値
ミステリ経験値
http://d.hatena.ne.jp/tomo-s/20051013#p1
2pts...orz
オタク経験値
http://d.hatena.ne.jp/Hayasaka/20051010#1128947745
32pts...
via
http://d.hatena.ne.jp/yoshi-kazami/20051017
ラノベ経験値、エロゲ経験値を考えて見たけれど、自分の経験値が低いので作成できません。
家庭内ニートを駆逐する方法
http://blog.livedoor.jp/typezeroblog/archives/50137472.html
via
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/
うちの兄がヒキだったのですが、両親の他界以来私に寄りかかってきたので、二人で
上京、アニメショップに兄を置いて「私その辺見てくるから、二時間後に迎えにくる
から」といってそのまま置いてきました。
イラクでの英軍の捕虜奪回作戦に使用されたのはICVでMBTじゃない
http://kiyotani.at.webry.info/200510/article_33.html
http://kiyotani.at.webry.info/200510/article_34.html
実際この作戦(注:9月に発生したイラクでの英軍の捕虜奪回作戦)に投入され、写真が掲載されたのはウォーリアICV(歩兵戦闘車)です。英陸軍の戦車チャレンジャー2ではありません
マスメディアは、誤解を招くことは承知で、戦車という言葉をつかっているからな。
「ファイブスターストーリーズのメカが異様にかっこいい」
http://wsn.31rsm.ne.jp/~chapel/mt/archives/200510/18-034435.php
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1129507466/
37 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:2005/10/17(月) 09:38:41 ID:3jCGpUVA0
つーかFSSの模型は自立すら難しいどうしてヤクトミラージュの設計したヤツは頭おかしいぜ?
http://dotubo.hp.infoseek.co.jp/twin/31-s.jpg
http://auction.woman.excite.co.jp/item/4320836399 名前:(*゜Д゜)<21歳inν速 投稿日:2005/10/17(月) 10:40:22 id:vEoVOdGl0
http://automaticflowers.ne.jp/fss/gallery/gallery01/upimg/factory_wombat.jpg
こんなにごついのかルージュ
"内臓が生みだす心(西原克成)"の書評の感想
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_85cd.html
ちょっとメタに。
"心"というものが未定義なのに、それを云々すること自体が間違いである。
ちょっとネタに。
腹が減るとイライラするし、満腹になると眠くなる。心は内蔵が生み出している。
レトリックを駆使して
現在、主流となっている学説でも、発表当時トンデモと言われたものもある。この説は、現在トンデモと言われているが、将来認められるかもしれない。
ユダヤジョーク。引用じゃないがどっかで読んだうろ覚えのもの。
人間とは何か。
モーゼは頭を指差した。理性である。
キリストは、胸を差した。心である。
マルクスは、腹を差した。胃袋を満たすことが必要だ。
フロイトは、その下を指した。示す場所が無くなった、アインシュタインは言った。
「すべては相対的だ」
"さようなら、WYSIWYG"
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20051010.html
要約:
Macintoshスタイルのインタラクション・デザインは限界に達した。Results-Oriented UI(結果志向のユーザ・インターフェイス)と呼ばれる新たなパラダイムが、ユーザに大きな力を与える日がやってくるのかもしれない。
ミケランジェロなら、大理石の塊を見るだけで完成した彫刻を容易にイメージすることができるかもしれないが、そのような離れ業は、一介の庶民には極めて難しいことである。
彫刻の作品集を見ながら、大理石の塊に向かって、“ダビデ像になれ”とか“ミロのヴィーナスになれ”と指をさせばそれができ上がるようなものだ。デザインを変えたいと言えば、中身(顔や大きさなど)を維持したまま、大理石が言われたとおりに姿を変えてくれるというわけである。
問題は、ダビデ像になる機能が実装されていても、弥勒菩薩になる機能が実装されていなかったらどうするのか?“弥勒菩薩になれ”と56億8千回唱えれば、弥勒菩薩になるのか?どうも信用ならねぇ。
インターネットの番組表から、録画ボックスに番組表をドロップする。「コマンドが違います」。画面の中で、有効なコマンドを見つけるのに四苦八苦する未来が待っているのではないか?エラーすら、ロクに回収できないソフトメーカーはどうも信用ならねぇ。
"切断線の無い物語"
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051016
前回は、今日のアニメ作品において、大状況が非常に空疎なものとなり、むしろ、その空疎さを補填するような形で、小状況が機能している、そのような現状を概観した。旧来の作品においては、大状況と小状況とは滑らかな接続の仕方をしていた。常にアクセントは大状況のほうに置かれていて、小状況は大状況を構成する部分的な要素であった。しかし、現在の作品では、このようなバランスが崩れ、むしろ、小状況のほうにアクセントが置かれるようになってきた。そのため、様々な作品において大状況が描かれるとしても、それは、一種の紛い物の様相を呈するようになったのである。
さて、現代の冒険ものというテーマは非常に興味深く、かつ、問題含みであるので、また別の機会にじっくりと取り組んでみたいが、今回主張したかったことは、それまで大状況の物語であったはずの冒険ものが、小状況の物語としてアクセントを変えつつある、ということである。日常生活の外部を旅することが冒険であるのなら、今日的な冒険ものは、日常生活の内部で行なわれているのである。
↑の感想。「ふたご姫」と「パンダリアン」も見ていないのでこちらのほうがしっくりくる。
http://d.hatena.ne.jp/tricksign/20051017
「ふたご姫」と「パンダリアン」を例にマクロ的な視点とミクロ的な視点の関係について。興味深くて読みやすい文章です。いつ頃から小状況というかミクロ的というか、そっち側に比重が置かれるようになって行ったっけ?「セーラームーン」は大状況的であったと思うし、「レイアース」も極めて大状況的だったな。「CCさくら」は原作しか読んでませんが、あれは半々ぐらいだったと自分は感じる。この10年魔法少女物は「ふたご姫」が始まるまで見てないので、その間が断絶しちゃってるや俺。
大状況といえば
・日常から大状況へ移行したけど帰ってきてゴールしてもいいよね、なAIR
・大状況へ移行して大状況が続きまくりで(中略な)ハロワ
・大状況への憧れを描き、大状況に移行したけど空疎だよコリャコリャ。セレンたんは猫しっぽなロケ夏
・大状況は示唆されるけど、描かれ方はほとんど背景な、あやかしびとや人外。
・後半戦での大状況が芸風な8月。
・状況といえば仮想戦記な群青の空。
・大状況(中くらいだけど)を捏造していた舞。
・日常から、世界の危機へ、大状況へ移行したけど、本当に大きいのは状況じゃなくて主人公の(中略)なデモンベイン
あ、ただ単に自分の好きなゲームを列挙しただけになってしまった。
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051008#1128776309
現代における物語の問題とは、まとまりのない日常生活にひとつのまとまりをつける物語が非常に退屈なものになっているということである。もし、『プリキュア』の話が、日常生活のシーンだけで構成されていたとすれば、そこで描かれている話は極めて平凡で、退屈なものになったことだろう。しかし、だからといって、光と闇との闘いという大状況もまた、非常につまらないものなのである。そうしたつまらない二つの物語を接合することによって、何とか、物語の価値を再発見しようというのが『ふたりはプリキュア』で行なわれている必死の試みなのである。だが、この方向性もまた、最終的には、形骸化を免れないだろう。現在の『プリキュア』がそうであるように、日常生活と敵との戦闘というルーチンワークを日々こなすだけとなる。おそらく、いま必要とされているのは、日常生活を語るための別の物語である。そうした方向性に一歩踏み出している可能性がありそうなのが、おそらくは、セカイ系作品なのではないか?
大状況の困難さ、日常生活の困難さについて。
"ツンデレの勝利条件から考える、教養小説回復の困難さ:前篇"
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20051019/p1
少年が困難を克服して、大人になる=家族を回復する=連れ合いを獲得する
70年代の「宇宙戦艦ヤマト」
主人公と故郷の傷の回復は容易で、ストレートに家族は回復される
主人公と故郷は回復不能の傷を負うが、かろうじて疑似家族の回復に成功する
90年代〜00年代「新世紀エヴァンゲリオン」
主人公と故郷は回復不能な傷を負い、疑似家族の回復も困難となる
そんなこんなから、ツンデレの位置づけを考えると、最近、ふと思っているのは
コミック・美少女ゲームを中心として90年代後半から数を増やしてきた、「色んなタイプのヒロインが登場するハーレムもの」は、弱体化してしまった教養小説の少年性を、ヒロインの多彩さによって補填する機構なのではないか
少年性とは何か。成長への確信であり、未来の確信であろう。belive in the future!
成長が、成熟が、未来が、そして天国がアプリオリに与えられ、もしくは信じるに十分な強度を持つからこそ、困難を克服する冒険を始めるのだ。物語には結末がある、という確信が与えられるからこそ、物語を読み始めることができる。少年にとって未来は自明のものではなく、ヒロインによって与えられるものであることは、ラノベやエロゲを読めば明らかである*1。
*1:もちろん冗談
教養小説の不可能性
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051018#1129609692
教養小説というのは、結局少年が「世界」と出会いそれに参入していくことを描く物語で、つまりは象徴界の確立と共有、とでもいう過程を描くのだけど、象徴界自体がいい感じにアレしてる現在、成り立たないのです。出会い、参入すべき実体がそこにはなく、あったとしても魅力なく脆弱であり、だから参入できないし、できたとしてもしたくない。それでも人間は「成長」しなければならないというテーゼがもう一方にある。
このジレンマを克服するために、現代の教養小説は「メタフィクション」というメソッドを選ぶことが出来、それはかなり相性が良い。つまり、世界を、大人になるということを脆弱なフィクションとしてしか捉えられない「ぼくら」にとって、メタフィクションこそが、「世界」をフィクションとして解体し「セカイ」へと置換した上で、その外側に立ち、理解し、記述し、受容あるいは超克するための最も妥当な手段なのだから――とか。まあそんな感じです。
"夜の世界と、夜の世界でのビルドゥングス・ロマン"
http://ameblo.jp/petronius/entry-10005192874.html
スーパーテレビのドキュメンタリーを見たり、友人のホスト経験の話を聞くと、この世界が、信じられないほど
体育会系的な”漢(おとこ)”の世界
であるということが、わかってきた(笑)。女を食いものにするちゃらちゃらした世界とは程多く男くさい序列階級的な世界観のようだ。
そして、男的階級社会の目的は、勝利・成長・友情なのだ。
DQNはホストになって成長し、オタはエロゲをやって現実社会での成長を拒否するんだ!