終身雇用という経過措置

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51168584.html



"19世紀には労働者はみんな「派遣」だった"
というエントリーは、「平成の無産階級は、祟りだと思って19世紀労働者の待遇を耐え忍べ」という主題ではなくて、

彼らが自由に企業を移動することを支援する制度が必要である。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/78d36ac0e6fa382a3cdfa1e4cfd43669

というように、社会の側で労働者を支援する体制の整備を求めるものと考えている。

雇用問題の本質は「市場原理主義」でも「階級闘争」でもない。戦後しばらく日本社会の中核的な中間集団だった企業の求心力が弱まり、社会がモナド的個人に分解されていることだ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/412ebde80d54a027aaf3431de4363563

マルクスハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。

動物がポストモダンな現代は、寡干渉社会であり、マルクスが活躍した近代(以前)は、過干渉社会であった。当時の人間にしてみれば、部族社会のコミュニケーションは煩わしい側面が強かったかもしれない。そして、干渉を排除してみると、こんどは社会的欲求の欠乏に悩むことになる。ここで短絡的に、部族社会への回帰を叫ぶ人は、あまりいないと思う。部族社会への回帰では、現代人は満たされない。現代人は、ただの干渉に興味は無い。欲するのは、「心地よい」干渉であるからだ。

それは農村共同体が解体して社会不安が強まった1930年代の状況と似ている。今度は軍国主義が出てくることはないだろうが、こういうとき警戒すべきなのは、かつての青年将校のような短絡的な「正義の味方」である。