日頃のFireFox+Quicknote+はてなBarでない環境は面倒くさい:我々を動かすエネルギーは退屈だ。目指すものはマズロー的な何かだ。みたいな。

さてでは我々が面白いと感ずるために真実に必要なものは一体何かしらん、という疑問もわいてくるのですが。ある種の刺激の受容体さえ抑えてればいいのかな。データベースとか動物化とかいう嫌なフレーズが脳裏をよぎったけど、多分ちょっと違うと思います。

 動物は、満腹になると、動き回らない、気がする。脳味噌のなかに、有能な産業相がいて、保有するエネルギー資産と予測される狩猟エネルギーが線形計画法で、というのではなくて、満腹になると、動き回りたくなくなる、ような気がする。
 もうちょっと上位概念を考える。知覚刺激ね。知覚刺激が無いと「安心」する。無いと「退屈」する。適度に満たされると、退屈が我々を苛み、現状より優れた環境を求めるようになっているのだろう。そのパラメータによって、都会に出かけて帰ってこない人、田舎から一歩も出ない人、なんかが作られる。みたいな。
 ここで面白いのは、おそらく人間には、刺激の微分装置がついていて、反復刺激はどんどん定数化してしまうあたり。苦痛は慣れないけど、幸福は飽きる、結局はそんな感じ。
 いちおう書いて置くと、均衡・均整・といった、西洋庭園的・ソビエト的・テクノ的な機械的な反復は、自然に存在しないからこそ、刺激として有用だと思う。あと、この刺激の微分回路は、いくつかの出来事を因果関係という直線で結び、物語という一つの曲線に乗っける機能をもっていると思う。みたいな。