作品の深度

htt://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050731#p2

その番組中、高畑勲氏が登場して(おれの記憶違いが混じってるかもしれないけど)こんなかんじの話をしていた。「最近の作品は、見る前から得られる感動の種類が提示され、視聴者はそれを選択して見る。作品の主人公の視点に感情移入することが基本になっている。けどもそうではなく、どん底の人間を客観視して「ああ自分はこうでなくてよかった」と見終わってホッとするという作品のよさもある」。キャラクタが視聴者に特定シチュエーションでの気分を疑似体験させるための道具に過ぎないなら、そこに人格はあるように見えても、ない。人格としてキャラクタを描けば、キャラクタに過ぎなくとも、人格らしいものを感じる。作品中の他人だ。そして他人はおれではないので、共感はあっても、制限される。「現在の感想様式で、感想の書きやすい作品 / 書きづらい作品」問題(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040802#p2)の鍵もそこか。感情移入を通してスルスル書く様式の感想が発展したというわけか。

 よくできた作品は、鑑賞者にとって他者として存在し、観賞した100人に対して100通りの読み取りを許容する。でも、それは鑑賞者が作品から何かを読み取ろうとする意思があり、読み取る能力があることが前提。一方、良く作られた作品は、テーマパークのモーションライドのような存在で、怖がらせるところでは照明を落とし、おどろおどろしい音楽を流し、びっくりさせるところではシートを揺らす。これはこれでいいのだけれど、リアリティーの深度には限界がある。世界観も、キャラクターも、観客を乗せて走る軌道に従属した存在で、ある一定以上掘り下げようとしても、そういうふうにつくりましたから、という、NPC、いや、固定配置のモンスターや村人でしかない。
 緻密な世界、自立した人物が織り成す、イベントの連鎖から、意味や物語を読み取り、やっと人物の内面を垣間見ることが可能となる作品と、物語も意味も内面も、キャラクター紹介に書いてある作品では、感想の書き方に違いがでるのも頷けない話ではない。
 自分としては、工業製品であり、ファストフード的で、モーションライドのような作品がすきなんだけど。青空が流れると涙が駄々漏れ。うぐぅ