" 今後も自作PCを選びますか?"

http://slashdot.jp/askslashdot/article.pl?sid=07/02/03/1230247

アキバの老舗であるPCパーツショップ・CUSTOMが語る、「時代の流れ」

http://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0702/03/news012_2.html

 「NECPC/AT互換機に参入したころから、すでに自作ブームが終了するストーリーはできていたと思います、緩やかな死が始まっていた。PC98シリーズが全盛の頃は、メーカー製パソコンが非常に高価だったため、自分で安いPC/AT互換機パーツを組むと、かなり安くできました。100万円クラスのPC98に近い性能のマシンを30万円で作るとか。それから“自作は安くてお得”という印象がついて、一般層がPCパーツを買うようになった。でも現在は、コスト面において自作のメリットは無に等しい。完全に趣味の世界です。趣味として自作を楽しむ人だけが残っていくので、ショップの規模が縮小するのは自然の流れなのでしょう」。

セレのオーバークロック+ノーブラメモリ+CD-Rで、市販品より安く高性能だった時代もあったけど、今後自作PCを選ぶかどうか微妙。
一般人にとって、と一般化するのはやめておくにしても、自分にとって、ATXケースは大きすぎ、な気もするし。
オンボードGPUがクソで、拡張すらできない、見たいな話もあったけど、最近ではそういう話も聞かなくなったし。


だから、デスクトップPCを買う理由が思いつかないけど、デル買って世代遅れになったら廃棄、かなぁ。
3Dエロゲがやりたくなったら、唯一残してあるATXケースに、なんか詰めて使うかも。

自由意志について

http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20070204/1170509013
 自由は、制約からの解除、を通例意味する。
 人間の思考は、化学・物理反応の産物であり、それを解除して存在することはできない。ミームであれば他の個体、社会資本に言及するけど、それも同様。
 ただ、通常我々は、そのへんのものを制約とは捉えない。昔は、制約というと世俗権力だったけど、宗教権威、マルクス的なアレ、フロイト的なアレ、も、制約と捉え、そこからの自由を思考する人もいる。文化人類学とか、相対性理論とか。



追記。自由という言葉を聞くと、誰の、何からの自由、という観点が気になる。通常、市民の、権力からの自由、という意味で使われるけど。情報のコントロールで市民の選択を制限する、という観点もあるし、経済状況が自由意志を制約する、という観点もある。もっと敷衍すると、文化(や集団的無意識)が、個人の意思を決定付けている、という見方もできる。さらに敷衍すれば、重力が人間の行動を制約し、制約の持続が人間から空へ浮かぶという意思を奪っている、という表現も出来る。と、敷衍すると意味が無いですね。という意味。