オルタ発売:ネタバレインプレのような何か

http://d.hatena.ne.jp/Su-37/20060224#1140730765

"ThinkPadに加え、新「レノボ」ブランドを間もなく投入"

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20060222/230398/

"KEND"

http://akakabuto.exblog.jp/470461/
via ?B

KEN+END。「戦いはこれからだ!」「虚無戦記に続く」など、あまたある石川賢の打ち切り風エンディングのこと。提唱者:V林田。

打ち切り風ENDとしては、KNOZ:これなんて男坂?や、KNRT:これなんでロケットで突き抜けてるの?が類義語かな。
参考二次元エンド
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060222#p1

"問題が発生したため、あなたの人生を終了します"

http://f.hatena.ne.jp/guzen/20060218164928

"監察医制度がある地域は、東京都特別区大阪市名古屋市横浜市・神戸市の5地域"

http://d.hatena.ne.jp/guzen/20060218/1140249148

温故知新:エロゲ廃人度調査:2002年9月頃

http://www28.cds.ne.jp/~cattail/enq/enq.cgi

本当に悩ましい永田議員のガイドライン

http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/gline/1140275540/
via http://chapel.vivian.jp/

1 :水先案名無い人:2006/02/19(日) 00:12:20 id:cKLp5r+W0● ?##
永田「ロン!三万六千!」

武部「・・・」

永田「早く点棒を出したらどうなんですか」

小泉「いや、先に手牌を倒せよ」

永田「この手牌は、最大限守ってあげたい」

小泉「チョンボなんじゃねえの」

永田「どのようにして、その先入観を打ち破る事が出来るのか。本当に悩ましい」

安部「4枚目の西でロンってことは国士無双か?俺「北」を4枚持ってるぞ」

永田「この一方的な攻撃。この風景。こんなところに手牌を倒したらかなわないと感じるのは当然」

小泉「だったらロンなんて言うなよ」

永田「一言聞いただけでガセだと決め付ける、言論封殺、もっとも恥ずべき行為」

安部「誤ロンは8000点だよ。早く払え」

永田「どのような条件をクリアすれば、真性なモノと認める事ができるのか、知恵を貸してください」

小泉「おまえがロンって言ってるんだろうが」

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歴史修正主義バトル

http://naruse.exblog.jp/2734508/
 えーと、私のあのへんについては、読売(だったかな?)のコラムの史観です。都市攻防戦は、大変悲惨なものであり、兵士の統制も万全ではない。しかし、組織的な殺害が指示された証拠は無い。このへんが西洋のアレと違う。
 また、日本の歴史観が学術的に正しいかどうかというのも、あまり関心は無い。日本の歴史観が、世界の標準を逸脱したものであれば、特定アジアの理解を得られないだけでなく、他の東南アジア、第三世界、そして欧米の支持を失うだろう。政府の書庫の文章の解釈や、ネットで検索をするだけが重要なのでは無い、と思う。
 というのも釣りで、ネットバトルにおいては、何をいうかじゃなくて、誰を味方に付けるかが大事なのだ。クマークマー。

トリガー・ハッピー・テキスト・ライター

 文章の書き方について、随所で見かける。ただ、文章術というのは大戦略*1の一環なのだ。改行の入れ方、Tagの使い方という個々の戦術論、テーマの選び方、小説を読んで文章力を補給しよう、などという戦略レベルのもの、さらには自己実現のためのBlogの位置づけ、という政治レベルのもある。
 本来、前線での戦闘には背後の兵站が前提で、外交圧力には軍事力、つまり鉄砲を担ぐ兵隊が前提となる。だから、上から下まで筋の通ったドクトリンを比べることなしに、こっちの戦車の大砲はこっちの戦車よりちょっと長いから強い、こっちの飛行機はこっちの飛行機よりマッハどれだけ速い、なんていうのを比べるのは、オタっぽくって楽しい。また、他人の戦略論に、それは戦術を無視していると非難し、他人の戦術論に、戦略が大事だよと難癖をつけるのも、ネットの醍醐味だ。
 あ、近代戦は、一日何十トンもの補給を前提としている。読み書きのリテラシーが無くても、続々と補給される弾薬を、司令部の指示に従い、前の方に撃っていれば、もうトリガーハッピー。後ろから配給される弾丸を、M16に装填し、前の方に撃ちまくる。それは、補給線を確立し、策敵を行い、戦いを遂行する能力とは違うような気がするが、相対主義者からみれば同じことなんだろう。
 Webのジャングルで、ありふれた言葉をマガジンに装填し、遮蔽物から無防備な誰かを発見すると、セレクタをAUTOに合わせて射撃する。また、誰もいないと思って草むらで大声で歌うと、周囲から一斉射撃を浴びる。ジャングルは地獄だぜ。AA略

*1:大戦略をつくっても会社がつぶれちゃうのは皮肉だね

メタ釣堀

http://yumizou.blog1.fc2.com/blog-entry-829.html

例題)携帯電話の功罪についてあなたの意見を自由に書きなさい
この問題に対するリアクションは大体こんな感じ↓になります。
1.「功罪」ということばがわからない
2.「いいところ」「わるいところ」とわかっても思いつかない
3.使っているから「いいところ」は思いつくけれど機能の説明になってしまう
 例)音楽が聴けてテレビも見れる
4.「わるいところ」はよく言われがちなことしか思いつかない
 例)マナーが悪い

 で、読んだ貴方は意見をかけるだろうか。

 この手のテーマを書く場合、テーマを何らかの切り口で切って、それを自分の史観に配置する。それなくして功罪を定置することはできない。知識の有無もあるが、史観の有無が必要だ。"philosophy"、ね。
 これが、携帯電話は、Deviceであり、Mediaであり、Infrastructureであり、Economyである。Communityの話も付随するかもしれないし、下位には言語の問題も発生するだろう。それぞれの分野で自分の(もしくは一般の)史観に参照すれば、功罪を言及することができる。
 

 なんていう文章は、全く持って釣られた文章だ。正解は、文章構造の話とか、携帯電話の功罪の話なんかじゃなくて、

 でも、大学卒業してから作文を学んだわけでもないし、なんとなく普通の文章が書けるようになったんだなあ、と。
 ある親方が「大関になれば、大関の相撲を取る」って言ったらしいんですよね。無責任だけど「ブログを始めれば、ブログの文章が書ける」とか。
 ああ、無責任だなあ(笑)

 ということだ。
 なんとなく文章を書いていればなんとなく普通の文章が書けるようになるし、なんとなくはてなを運営していれば(たぶん)なんとなく普通のサービスになるし、なんとなくBlogを運営していれば、なんとなく普通のBlogになるのだろう。


 最初の形式疑問についての答えはこうなるのかな。携帯電話について文章が書ける人間より、携帯電話に異性のアドレスが一杯入っているほうが偉い。


 と、釣られながらもどんどん書いてみる。
 活字を読む、というのと、読むSkillを鍛えるのと、そしてphilosphyを養う、というのはおんなじではない。雑誌の文章、Webの文章は、philosphyを突きつけるものではなくて、atmosphere、雑誌やBlogの空気の中でTextが流れ込んでくる。空気のなかでは、なにか自分が凄いことを考えているような気になるし、空気が抜けてしまえば、それはそれ、あれはあれ。また違う空気が流れてきたら以下同じ。文章が書けないと称する人も、誰かが空気を注入してあげればどんどんテキストを書くに違いない。プロセスを言語化し、多数で共有化する、なんていうのは不必要だ。デザイナーになればデザイナーのデザインをするし、CEOになればCEOの仕事をするのだろう。責任もたないけど。
 という変な文章を書いていないで、観鈴ちんに萌えていろ、ということか。

萌えのダーウィニズム、萌えに働くグレシャムの法則

 凄く広い意味での萌えっていうのは、人為的に抽出しうる何かに対する愛着、みたいなものかな。アニメ、マンガからゲーム、エロゲという経路で濃縮されて、それが拡散したのが今現在の広い萌え。どんなものでも擬人化して萌えることが可能なのは、先の経路を通じて萌えSkillが熟成されたからだ、と個人的には考えている。
 で、この、狭い意味での萌え、動ポモ東氏な「デタベ萌え」、は、低コストで実装、配布、再生産可能、と思われる。アニメーションでのモーションというのは再利用が困難で、実装は高価で、ユーザー側もそれを同人誌で再生することが困難だ。また、言語で表現することも難しい。ダッフルコートを着て、栗色の髪の毛で、羽リュックを背負えばたいやきうぐぅだ。一度立ち絵をつくればあとはスクリプトで動かせるし。
 物々交換から貴金属、貨幣、通貨、どんどん流動性が上がったように、萌えも流動性の高いキャラクター、そしてキャラに一旦退縮し、それが拡散し、肉付けされているのが現代かな、と思っている。萌えを語る人は、その蒸留され、退縮したキャラを語るため、それは動きのない静止画が主となるのだろう。
 


 エロゲの(あまり)無い時代から萌えという言葉はあったし、東氏が用いた萌えという言葉は少し特殊だったし、萌えという言葉は拡散している。ただ、歴史や用法をたどることで、そのアウトラインは抽出できるんじゃないかというのが私の考え。厳密な定義は不可能→定義は不可能、という論法や、言語化した瞬間に真実は霧散してしまう、みたいな論法を見るとちょっと物悲しい。いや、これが、濃くてスペシャリストな(中略)の必殺技なのかな。「白と黒の厳密な境界線は無い!したがって、白も黒も定義できない!!」