ナチスと三権分立

事件後の3月29日、「絞首刑に関する法律」が制定された。この法律は、「罪刑法定主義」や「法の不遡及」の原則を否定するものであり、従来の刑法では懲役刑にしかなりえない放火犯の量刑を死刑にすることが目的であった[10]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

9月21日からはライプツィヒ最高裁判所で本物の裁判が始まった。12月23日まで続いたこの裁判は、海外の影響も受けてナチ党の思うように行かなかった。ゲーリングは自ら検察官を演じて被告を問い詰めたが、逆にディミトロフに言い負かされる始末であった。ゲーリングは「法廷から出たらどんな目にあうか見てろ、この悪党め!」と罵ったが、ルッベ以外の被告4名はすべて無罪となった[14]。ルッベには死刑が宣告され、1934年7月10日に刑が執行された。

ゲーリングは「これじゃ裁かれているのは共産主義者じゃなくて、われわれだと思うだろう」と嘆いた。これにヒトラーは「ゲーリング君、これは時間の問題だよ。もうすぐ連中に我々の言葉をしゃべらせてやるさ。連中はみな退職間近だし、後釜には我々の息のかかった人間を据えることにしよう。しかし老紳士が生きているうちは、われわれとしてもどうしようもない。」と語ったという[15]。

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どっかでみたような風景。

判決翌日の『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ライプツィヒの誤った裁判」と題する声明を発し、「民族の法感情に照らせば明らかに誤った判決」とし、「既に克服されたはずの自由主義的思想の枠組みからいまだ抜け出せないわれわれの法生活に対する根本的変革の必要性を、誰の眼にもはっきりと明らかにして見せたのである。」と結論した[16]。