"絵を描けない人、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人"

何の脈絡もないが、絵を描けない人や、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人というのは共通点があると思う。

それは端的に言えば、ものごとを正確に理解しようという意識が弱いということ。正確な理解に基づかずに、絵を描いたり、文章を書いたり、何か言ったりするから上手に伝えられないのだ。

http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20090922/1253629853

ただし、問題は記憶力だけではない。たとえ本人を目の前にしても、その人の正確な顔を描き写せる人は極わずかだ。目で見たものを脳に写像してそれをそのまま紙に描くと言うだけの単純な工程を通じて、まったく別物が出来上がってしまうというのは、つまり、よほど手先が不自由な人でなければ、目で見たものを脳に写像する段階で余計な情報が大幅にカットされ、適当なイメージだけがインプットされているということに他ならないのではないか。要するに、我々は目の前のものを見てるような気になっているだけで実は何も見ていないのだ。

誰でも写実的な絵を描くことができるということ

http://d.hatena.ne.jp/Cru/20090711/1247327110
技法関連

つまるところ「写実」というのは、記号の拒否です。

http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000722.html
萌え絵関連

写実絵画の初歩

しかし一方で、言語能力(左脳)も発達しているため、コトバ(象徴記憶)による干渉が、見えている形を記号にすり換えてしまうのです。この「すり換え」は、大脳の中で無意識に行なわれるため、自分では、不注意による見落としに氣づきません。更に、感覚には「麻痺」や「錯覚」があります。

http://k-agrado.com/lesson/rensyu.html

技法関連

重度の自閉症に見るカテゴリーからの解放

著者はこの証拠として、重度の自閉症の4歳の少女が書いた、記憶を元にした、気味が悪いほどの写真的正確さと写実的な流麗さを備えた線画を引き合いに出し、高度な洞窟壁画との驚くほどの類似性を指摘しています。そして、その少女が写実的な絵を描くことができたのは、「彼女が未発達な言語やその他の弱みを持っていたからこそである」と仮定し、「彼女の描画能力が本当は、彼女の心がほかの正常な子供では通常はもっとスムーズにすすむ方向に発達することに失敗したというだけの理由で『解き放たれた』のではないか」と推測しています。つまり、「ウマを見るときに、それを『ウマ』というカテゴリーの表徴(トークン)と見る──したがって、その記憶を断念する」という概念化の欠如によって、ものがどのように見えるかを正確に記憶することができたのだと述べています。そして、「洞窟の画家たちの力量は、彼らがほとんど言語を持たず、そのために彼らの絵も『指示的で命名的なもの』によって汚染されていなかったという事実」という可能性に言及しています。

http://74.125.153.132/search?q=cache:fW6eNg00rpkJ:www.pm-forum.org/100satsu/archives/2006/04/post_397.html

文章の場合

ある異常体験者の偏見 (文春文庫) * 作者: 山本七平 より引用

なんでも彼が見た映画(だったと思う)では「敵が来た」と報告する場面があったのだそうである。「バカにしてやがる、そんな報告するわけネージャネーカ」といつものように彼は憤慨した。確かにその通りで、こういう場合は「敵影らしきもの発見、当地へ向けて進撃中の模様」という。

確かに彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応「敵影」らしいと判断し、こちらへ来ると推定したにすぎないわけである。そして対象はこの判断とは関係がないから、味方かもしれないし、別方向へ行くのかもしれない。しかし、だからといって一般の社会で、「女の人が来た」といわずに「女影らしきもの発見、当方へ向けて歩行中と判断さる」などといえば、それは、逆に頭がおかしいと判断されることになろう。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080812

結論らしき何か

承太郎さんが靴のムカデ屋で「観察しろというのは、見るんじゃあなくて観ることだ。聞くんじゃあなく聴くことだ。」と言っていた。

http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20090922/1253629853