論客という肩書きが増えたワナビ。

平仮名の「おたく」と片仮名の「オタク」についての論争なら、当然大塚英志氏を忘れちゃいけないよね、ということで発掘。1998年の話題。--http://d.hatena.ne.jp/kanose/20060529/otakuotaku

 かつて中森が名付けた<おたく>が、いつの間にか<オタク>になることで、漂白 され、抜けおちていったものがある。岡田が関わり持ちあげ、そして彼の「洗脳力」 とやらで普及したのはあくまでも<オタク>だ。--http://netcity.or.jp/otakuweekly/BW0.8/column1.html

 という記事にインスパイヤされ、自分のはてぶを検索。「おたく」「オタク」「OTAKU」と分けたタグをひっくりかえすと結構おもしろい。それを見てもらえば話は終わりなのだけど、そういう使い方はほとんどされないようなので、ちょっと展開してみる。

しかし、実際には大多数のオタクとは、昔も今も「萌えオタ」「腐女子」なのではないだろうか。オタクの祭典、コミケのどの勢力が大きいかを考えてみてもわかることだ。元々、恋愛偏差値が低く、架空の世界で満足しようとする者の事をオタクと言っていたはずだ。その中のごく一部がクリエーター的思考を身につけ、オタクとはかっこ悪いだけの存在ではない、と言い張っていただけのように思う。

今回の電車男アキバ系ブームは、そんな虚像を吹き飛ばす「真実の風」だった様に思う。対して、前回「萌え」に大賞を掻っ攫われ、苦虫を噛んだような顔をしていたオタキング達こそが、実は嘘をついていたのではないだろうか。まあ、物事は人によって見え方は違うで、何が正しいのかなどは判るはずもないが。--http://d.hatena.ne.jp/crow2/20060131#1138730261

エリートとしてのオタクは少数派だった?

 「【オタク】の矮小化」という表現は、かつては矮小化されていなかった本来のすばらしい【オタク】というものがあり、それが現在、偏った者たちによって貶められているということを意味する。それは、明白な嘘である。矮小化されたのではなく、肥大化して祭り上げられたのだ。その結果、ネガティブな出自がジャマもの扱いされているにすぎない。--http://homepage3.nifty.com/sasakibara/

エリートとしてのオタクは祭り上げられた存在だった?

これは、岡田氏が「オタク」内部に対しては「お山の大将」をしていたという態度と表裏一体です。岡田氏は、自分を、「オタク」を、世間とは「対等ではない」関係に位置づけることによって命脈を保ってきたと言えるでしょう。
つまり、実は岡田氏は「世間」の「オタク蔑視」に深く依存していたわけです。それは、たいへん欺瞞的な態度と言わざるを得ません。なぜなら、彼は自分自身の存在も含めて「オタクであること」を嫌っているからです。おそらく、彼のシンパも同じ心理を共有していると思われます。--http://www.t3.rim.or.jp/~goito/indexx.html

エリートとしてのオタクは、アンチ萌えオタだった?

最近またオタク論争をよく見かけるが、未だに歴史と定義の確認から入る時点で話し合う価値がないと思わないだろうか。パターンを推測するに以下4つが基本で、この話をすること自体が目的なのかもしれない。

* おたくの定義
* おたくの起源(歴史)
* 世代分類(前提の確認)
* 知識競争(これを知らないなんてオタクじゃない、というような)--http://www.jarchive.org/text/otaku.html

 オタク論争は、オタク定義について話すことが目的。

大塚英志は前号の対談で、森川嘉一郎が「オタク」という表記を軽率に使っていることを厳しく批判した。平仮名で表記される古くからの「おたく」にこだわる大塚は、岡田斗司夫村上隆森川嘉一郎の「オタク」観、つまり一般人や海外メディア向けにソフィティケイトされ、宮崎勤的なものから目をそらすポップなカタカナ表記の「オタク」には、真っ向から反発している。さらに今回の対談の中では、最近のネットで右翼化している連中を「ヲタク」と呼び、「おたく」「オタク」「ヲタク」の3種類を便宜的に使い分けている。
……まあ、部外者には本当にどうでもいい内ゲバなのだが。「おたくの定義で何時間も話せるのがおたく」と言われるくらいだからね(笑)。--http://chiruda.cocolog-nifty.com/atahualpa/2005/06/v_ef36.html

「おたくの定義で何時間も話せるのがおたく」