酷評は何も生み出さない。

http://plaza.rakuten.co.jp/wakatukihikaru/diary/200602140000/
わかつきひかるの日記 via ?b

中途半端に小説テクニックを知っている小説家志望者の「酷評」は、プラスよりもマイナスのほうが多いと思う。

 まあ、「酷評」はアレということで。単なるマーケティングのミスマッチ、ということもあるし。作者のボールをきちんと受けないで、相手の受けられない球を投げるのはよい批評ではない、とは思う。受けるのメドイし、適当に投げるほうがストレス解消になるし、という今日この頃。

さくらむすび、感想

http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20060217/p1

とにかく僕がつくづく思うのは、せめて次は、ちゃんとヒロインのおっぱいが適切に膨らんでいる、できればおもらしのない普通のエロゲーをプレイしたいということです。おねがい、もう、許して……。

XPの番組@TBS

ATを思い出した。

ネタの海、ネタの大空、ネタの大地

http://d.hatena.ne.jp/lastline/20060217/1140144380

僕自身のイメージはむしろ農業的で、職人という農民、卸売りとしてのweb、仲介業者としての個人ニュースサイト、市場としての大手、そして料理人たるブロガーって感じ。

 自分のイメージはこんな感じ。
 http://d.hatena.ne.jp/REV/searchdiary?word=%b5%f9%bb%d5

自費・共同出版系の出版社のしくみ

http://scientificclub-run.net/diary/d200602b.html

狩田の自費・出版系に対する立場は単純。
 汚い手でライトノベルに触るな(笑)

事後的にトラウマを欲望する話

http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/moro.htm

 精神科医斎藤環は「現代社会」を「解離型社会」と名付けている(「『空虚さ』を超え『不安』のほうへ」大航海・二〇〇一年一月)。
 解離型社会のもとで主体は「欠如の不在という欠如」(大澤真幸)と呼ぶべき独特の空虚感を強いられる。そこでは最もリアルなものが正に「空虚」にほかならない。そしてこの空虚感は、主体に言わば「欠如のリアリティ」を想像的に欲望させることになる。空虚と欠如とは異質な存在論的感覚なのである――空虚とは主体が欠如さえ持ちえないこと、欠如をさえ欠如していることなのだから。このとき「空虚さの感覚が欠如への欲望をもたらす。(略)一貫して欲望されているのは自らの起源としてのトラウマであり、強い欠如の刻印のもとに自己イメージを確保しようという身振りにほかならない」。

"葉鍵系の源流を1980年代後期少女まんがに求めてみる"話

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060217/p1

しかし,もし1980年代後期に現れた系統群に名称が与えられ分析が試みられていたのなら――構造的により近い《名称未設定のあれ》の方が参照されていたのではないだろうか? というのが,冒頭に掲げた拙稿の意図なん。

 「だって、ぼくの----、キャスト貧困すぎて、だって、ぼくのストーリー、ヒロイン、行方知れず」という歌を思い出しました。歌詞に思い出せないものがあるのは、ベットに頭をぶつけたためかもしれません。