「精神的な健康の総量は一定」:斉藤環氏、ユートピアの精神分析

J.G.バラードの1996年作品『コカイン・ナイト』評。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/sv0202.html

 僕は精神科医として、ひとつの幻想に取り憑かれている。それは「あらゆる共同体における、精神的な健康の総量は一定である」というものだ。

サルベージ。

メディアが媒介するのは情報とは限らない。それはむしろ欲望であり、感情であり、センセーションだ。しかしバラードは危惧する。「人間の自己破壊のための才能がうまくコントロールされうること、あるいはせめて、より生産的な形に結びつけられることを私は望むが、しかし私は疑っている。近代的な電子テクノロジーが人類に、その精神病理とゲームのように戯れるためのほとんど無限の力を与えるにつれて、われわれはひどく移ろいやすく危険な時代へと移行しつつあるように思う(Jean-Paul Coillardによるインタビュー記事より)」

 だからバラードの発想の流れは、僕にとってはごく自然なものに思われるのだ。瀕死の共同体を活性化するには、適量の毒が、コントロールされた病理が必要であるということ。そう、まさにエストレージャ・デ・マルにおいて、承認済みの病理をまき散らす魅力的なトリックスター、ボビー・クロフォードの存在が要請されたように。